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「完璧家事亡国論」!?~佐光紀子著『「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす』を読んで~

 「男女共同参画社会」の実現を目指す事業展開をしている当財団に勤務するようになって、私は「男女共同参画」という視点で身の周りの事象を見直すことが多くなった。その一つが、私と妻との「家事」の分担。結婚して3年ほどして長女を授かった私たち夫婦は、二人でじっくりと話し合った結果、妻は教職を退いて専業主婦になることを選んだ。妻と結婚した当時、私は教員になってまだ5年しか経ていなかったから、財産と呼べるようなものは何もなく、反対に奨学金という借金を返済中であった。だから、結婚したらずっと「共働き」をするのは当然のことと考えていたので、最初は妻の提案に戸惑った。しかし、「育児に専念したい!」という妻の願いは強く、経済的な苦労は覚悟の上という思いを知って、私は承諾した。それ以来、私たちの家庭はいわゆる「男女役割分業」的な形態で今まで過ごしてきた。

 

 結婚と同時に地元の国立大学教育学部附属小学校に赴任した私は、附属校ならではの教育実践研究や教育実習等の仕事に追われ、多くの「家事」を妻任せにしていた。また、長女、そして年子の二女が生まれてからは「育児」の大部分を当然の如く妻に押し付けた。もちろん必要に応じてゴミ出しや洗濯物たたみなどの「家事」や、子どもを風呂に入れたり寝かしつけたりするなどの「育児」もすることはあったが、それはあくまでも手伝う程度の内容であった。基本的にはずっと「男女役割分業」的な形態のまま…。

 

 ただし、公立小・中学校の管理職で単身赴任をした5年間、私は自分の炊事、洗濯、掃除等の「家事」一般をやり、生活の自立力を培った。その結果、ここ10年間ほどはそれまでよりは私の「家事」量は増えてきた。例えば、ワイシャツなどのアイロンかけや洗濯干しなど。しかし、それでもまだまだ「家事」の手伝いの範囲であり、「家事」の分担とは言えない。だから、完全に仕事をリタイアしたら、曜日を決めるか隔週にするかは別として、炊事を分担したいと今から考えている。

 

 そのようなことを考えていた矢先、近所の書店で刺激的な題名の本を見つけ、購入した。『「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす』(佐光紀子著)である。著者はフリーの翻訳者。とある本の翻訳をきっかけに、重曹や酢等の自然素材を使った家事に目覚め、研究を始めたらしい。その後、精力的に掃除講座を開催したり、「家事」を題材にした著書を執筆したりしている。本書は、他国に比べ、日本に広く深く浸透しているように見える「ちゃんと家事」プレッシャーに関する国内外の事例を思いつくまま集めて編集したものであり、「第1部 完璧家事亡国論」と「第2部 「片づけすぎ」が家族を壊す」の二部構成になっている。

 

 それにしても「完璧家事亡国論」という表現は、ちょっと過激で極端だなあ。「家事」はできれば丁寧にきちんとした方がいいだろう。掃除だって、洗濯だって、もちろん調理だって…と考えてしまうのは、私が男だからなのだろうか。そして、そのような考え方は間違っているのだろうか。私は、そんな疑問を抱きつつ、読み進めていった。その結果、著者の「完璧家事亡国論」という表現の根拠になっている真意について認識を深めることができた。

 

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 そこで今回は、本書の特に「第1部 する完璧家事亡国論」の中から私が認識を深めることができた内容の概要を紹介し、それに対する簡単な所感を付け加えてみたい。

 

 まず、「日本は世界一『夫が家事をしない』国」であるということ。2016年のOECD経済協力開発機構)の統計によると、日本は男性が家事を分担する割合が参加加盟国平均(31%)の半分以下(15%)で、しかも男性の家事時間は経済大国5か国(アメリカ、中国、日本、ドイツ、イギリス)の中ではダントツの最下位。その主たる理由は、OECD平均23%を大きく上回る33%の長時間の有給労働(1日24時間のうちの割合)が影響しているではないかと著者は言っている。また、多くの女性の意識として「妻がちゃんと家事をして夫の稼ぎを支えるのが自分の役割だ」と思っているという現実を、その大きな理由に挙げることができるとも言っている。

 

 世界一家事をしない夫を作り出す上述の理由は、私も概ね納得することができる。しかし、実際にはごく少数しかいない専業主婦の生活を前提とした「手づくり礼賛」とそれにまつわる「丁寧な暮らし」は、多くの共働きの妻には縁遠い。にもかかわらず、そんな暮らしをメディアが煽ることで、それが実現できない自分の現状へのフラストレーションを高めている人が多いのではないか。この点、日本は家事に手間ひまをかけ、丁寧に作業をすることを是とする文化が今でも根強く残っている証と言える。もうそろそろ、このような文化は捨ててしまった方がいいのではないだろうか。

 

 次に、家事分担についてアメリカの論文でよく取り上げられているのが「バーゲニング理論」であるということ。「バーゲニング理論」というのは、「家事はできればやりたくないものだが、家庭生活を維持するためにある程度はやらざるを得ない。その配分は、家庭に提供する資源の割合に準ずることが多い」というのが基本的な考え方。もう少し具体化すると、「自分がやりたくなければ、持てる資源を活用して外注化を図る。洗濯がいやならクリーニング屋さんに持ち込み、洗ってたたむところまでやってもらう。お金がなければ、外注はできない。手持ちの資金をベースにすることで、家庭内で担当する家事の量が決まっていく」という理論なのである。しかし、多くの日本人は家事を外注したいとは言わない。アメリカでの前提そのものが欠落している。日本人にとって、家事は家の者が「きちんと」やるべきことであり、手を抜いたり外注化したりすることが常態となるのは認められないという雰囲気があり、「共働き」世帯数が「片働き」世帯数を抜いて久しい今も、相変わらず根強いのである。

 

 それにしても、上述のような刷り込みはどこからきたのか。著者は、昭和30年代以降の国民生活白書の内容を挙げながら、「核家族と家事の外部化が子どもをダメにする」や「家事や食の家庭外処理が家庭機能の低下の要因」という政府の情報発信が刷り込みになったのではないかと主張している。そして、著者はこのような政府の姿勢に対して、「家父長制の下で全てを手作りして、家事がこなせていたのは、嫁が奴隷のように働かされていたからだろう。核家族化が進行し、舅姑にヤイヤイ言われずに、食や家事を簡便化し、その分家族と過ごせれば、家庭機能は低下なんかしないだろう。」と批判し、このような「家事はきちんと」というメッセージなんかは無視してしまってよいとも述べている。

 

 「家事」というのは、個々の家庭で、こなしていける範囲で、核家族内で分業すればよいという著者の考え方に対して、私は基本的に賛成する。しかし、長年「きちんと家事をするのが女だ」という呪縛にとらわれてきた妻にとって、「きちんと」しない状態の家事を受け入れて完全に他の家族に委ねることは、決して簡単なことではないらしい。我が家でも今まで私が食後に自分なりに納得して食器を洗っても、妻はもう一度自分のやり方で洗い直すことがあった。つまり、私の食器洗いは妻の求める水準をクリアしていないのである。私はこのことで決して妻を非難しようとは思わないが、この妻基準の「きちんと」から、家族共通の家事基準へと移行しないと、夫との家事分担はなかなか進まないのではないかと考えている。私は何事に関しても「よい加減」な対応がベターだと考えているが、この「家事」一般に関しても衛生的な常識以上の「きちんと」は止めて、「よい加減」なレベルでよいと思う。もし妻がそのように思ってくれるのであれば、私は自分なりに責任感をもって「家事」を分担したいと思っているが…。

 

 以上、本書を読んで私が認識を深めた内容の概要をまとめながら、「男女共同参画」という視点で私と妻との「家事」の分担について見直してみた。今回のように、これからも身の周りの事象を「男女共同参画」という視点で見直し、自分なりによりよい生(性も含む)の在り方を求め続けていこうと考えている。