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学校スポーツと男性性との関連について考える~多賀太著『男らしさの社会学-揺らぐ男のライフコース』を手掛かりにして~

 私が中学校・高校時代、部活動として「野球」をしていたことは、以前の記事にも書いたことがある。しかし、その入部の動機については、触れることはなかった。その理由は、幼少の頃から「草野球」に親しんできていたので、「野球部」に入部するのは当然の成り行きだったからである。ところが、最近「男女共同参画」の視点で身近な事象について見直している中で読んだ『男らしさの社会学-揺らぐ男のライフコース』(多賀太著)の内容に触発されて、私が野球部に入部した無意識的な動機にふと思い当たることがあった。

 

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 本書は、次の二つの視点にこだわって、現代日本の男性たちの生活状況を、それぞれのライフステージと生活領域において、より分析的に明らかにしようとしている。

○ 男性を「ジェンダー化された存在」としてとらえること。

○ 男女の権力関係や利害関係の把握に際して、複眼的な視点でアプローチすること。

また、全体の章立ては次のようになっている。

第1章 「男」をどう見るか?-男性学の視点と方法

第2章 学校でつくられる男らしさ-学業・スポーツ・生徒集団

第3章 大人の男への道筋-青年期男性のアイデンティティ形成と葛藤

第4章 大人になれない男たち-ポスト青年期のジェンダー関係

第5章 企業社会と男らしさ-能力主義の台頭と男性支配体制の再編

第6章 仕事と育児のはざまで-性別役割分業の揺らぎと父親の葛藤

第7章 第二の人生への軟着陸-中高年男性の危機とその克服

第8章 男社会のゆくえ-男性運動の変遷とこれから

 

 これらの内容の中で私が特に触発されたのは第2章と第7章なのだが、今回は特に第2章の中の「学校スポーツと男性性との関連について」記述されている内容概要をまとめながら、私自身が野球部に入部した無意識的な動機についての内面分析を行ってみたいと考えている。

 

 まず、著者はこう述べる。「学校において最も重要な活動の一つである体育/スポーツ活動は、きわめて男性化された活動であると同時に、男性支配を正当化する巧妙な装置である。」「さらに、戦後になって学校体育に取り入れられた近代スポーツも、その誕生の歴史からして男性化された活動であった。」つまり、学校においてはスポーツを通して、男性支配を正当化する作用が機能しているのである。例えば、運動会の最終種目として女子ではなく男子リレーを持ってきたり、校内マラソンで女子よりも男子の走行距離を長くしたりする慣行は、男子は女子よりも優れているという印象を与えるのに効果的である。また、男女別のスポーツ活動は、男子競技は本来的に女子競技に勝るものと位置付けることで、男子の女子に対する優位という神話を守り続けている。

 

 次に、著者はこう続けている。上述のようなことは、「男性たちに『男はスポーツに秀でていなければならない』という社会的圧力をもたらす。」「男性でスポーツが苦手であることは、彼の『男らしさ』を低めるように作用する。」さらに、「スポーツは、マスメディアによって『男らしさ』を称揚する主要な手段として用いられており、学校文化や生徒文化も見事なまでにそれを追随している。」そして、それらの結果、「…男子児童・生徒にとって、スポーツにおける達成は、『男らしさ』の達成という点では、教育達成よりもずっと重要なこととして感じられているかもしれない。」言い換えれば、スポーツ達成への圧力は、男子に対して、女子とは異なる重圧感や疎外感を生み出していると言えるのである。

 

 私は、幼少の頃に幼稚園バスに乗る時は必ず女子を先に乗らせてあげようとするような子であった。また、周りから「泣き虫」と呼ばれるくらい、気の弱い子であった。だから、周りの大人から「もっと男らしくしなさい!」という無言の圧力を受けていたように思う。そんな私にとって、「草野球」に興じることは「男らしく」なるための修行のようなものであった。敵をアウトにすることを「殺す」、盗塁を阻止することを「刺す」、盗塁をすることを「盗む」などという暴力的・犯罪的な言葉を使用する「野球」は、より「男らしさ」を強調しているスポーツなのである。

 

    さらに、私が中学校・高校時代の昭和40年代はスポーツ根性マンガが流行しており、特に私が熱狂的に視聴していた『巨人の星』という野球を題材にしたマンガの主題歌は、「思い込んだら、試練の道を行くが男のど根性…」という歌詞が示す通り「男らしさ」を強調した超スポ根マンガだったのである。私は、「男らしくなりたい」という念願の下、野球を続けていた。そして、その「野球」が上手くなれば、必ずより「男らしく」なれると私は無意識に信じ込み、全国でも野球強豪校として名を馳せていた地元の県立商業高校の野球部へ入部しようと決意したのである。

 

 しかし、今、振り返ってみれば、「野球」を続けて上手になることが「男らしく」なるなどというのは、幻想のようなものであり、そもそも何をもって「男らしい」というのかがよく分かっていなかったと思う。また、男性が「男らしく」あらねばならないというジェンダー的な意味付けは、恣意的・社会的なものなのだから、私は幻想としての「男らしさ」に翻弄されていたのである。このことは、その後の私の人生において、因習的な家父長制に基づく「性別役割分業」を暗黙の裡に肯定することにつながり、新たな家庭生活を送るに当たって様々な問題を惹き起こす要因にもなってしまった。今、私は、幼少期に自然に振る舞っていたレディーファーストの心を持ち、少し気弱であっても他者に優しく接することができる「人間らしい」人として生きていこうと密かに自分に誓っている。残り少ない人生になってしまったが…。