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停年退職後に仕事をすることについて考える~『吉野弘詩集』所収「仕事」を手掛かりに~

  66回目の誕生日を明日に控えて、私はある詩のことを想い起こしていた。言葉とその意味を大切にする詩人・吉野弘氏が書いた「I was born」という散文詩である。私は最初にこの題名に驚き、そしてその内容に心惹かれた。吉野氏自身が「…I was bornさ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね。」と語っているように、まず受け身としてこの世に生を与えられる人間の在り方について、深く考えさせられる詩である。私は書棚の奥に並べていた『吉野弘詩集』を取り出し、「I was born」を読んで、しばし深いため息をついた。 

 

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    私はどちらかと言えば、詩や俳句、和歌のような「韻文」より、小説やエッセイのような「散文」が好きな人間である。そのような私が、なぜ本書を購入したのか。その理由は、私の知人の一人である元大学教授が現職時代に、ゼミで使用した資料の中で吉野氏の「夕焼け」を解釈していて、私はそれに大いに興味を惹かれて彼の他の詩も読んでみたいと思ったからである。本書にはあの有名な「祝婚歌」も収められていて、私のような韻文オンチ人間でも「詩って、いいなあ。」と思ってしまう。

 

 ところが、しばらくページをめくっていた私の眼に飛び込んできた詩があった。「仕事」である。黙読後、何とも表現しがたい感情に覆われた。その内実を何とか言葉に表す前に、まずは全文を次に引用する。

 

停年で会社をやめたひとが

-----ちょっと遊びに

といって僕の職場に顔を出した。

-----退屈でしてねぇ

-----いい身分じゃないか

-----それが、一人きりだと落ちつかないんですよ

元同僚の傍の椅子に座ったその頬はこけ

頭に白いものがふえている。

 

そのひとが慰められて帰ったあと

友人の一人がいう。

-----驚いたな、仕事をしないと

----ああも老けこむかね

向い側の同僚が断言する。

-----人間は矢張り、働くように出来ているのさ

聞いていた僕の中の

一人は肯き他の一人は拒む。

 

そのひとが、別の日

にこにこしてあらわれた。

-----仕事が見つかりましたよ

-----小さな町工場ですがね

 

これが現代の幸福というものかもしれないが

なぜかしら僕は

ひところの彼のげっそりやせた顔がなつかしく

いまだに僕の心の壁に掛けている。

 

仕事にありついて若返った彼

あれは、何かを失ったあとの彼のような気がして、

ほんとうの彼ではないような気がして。

 

 読者の皆さんはこの詩をどう解釈しますか。表面的には、停年退職した人が元職場に来て、老け込んだ姿を見せた後、再就職先を見つけて笑顔で報告しに来たのに、それは何かを失い本当の彼ではないようだと吉野氏は感じている。つまり、停年退職後は自然に老いていき、死んでいくのが「人間の宿命」なのだから、たまたま職を得て若返ったかのように見えるのは人生の幻影みたいなものだと彼は言っているのだと思う。私は、彼のこのような考えに接し、ある種の戸惑いを感じた。否、わずかに反感を抱いてしまったというのが本音か。

 

 彼が抱くこのような「人生の諦念」についての考えは、今の時代にはそぐわないのではないかと私は考える。「人生100年」と言われるようになった現代、停年年齢自体が年金支給開始年齢との関係から60歳から65歳へと延びて、これからは70歳へとさらに先延ばしになりそうである。仮に65歳を停年年齢としても、その後の人生は平均的には20年ぐらいあり、その間はただ徐々に老いていき死を迎えるのを待つだけでいいのか。それが、「人間の宿命」なのだろうか。65歳で隠居生活に入るのがよくないとは思わないが、私は停年退職後も心身共に健康なら、できるだけ仕事を続けていく方が幸せではないかと思う。少なくともそのような考え方が私の「幸福観」の内実である。

 

 「仕事」という詩に対する評価も、時代と共に変化するのではないかと思った。それでも、吉野弘氏の詩の素晴らしさは不動のものではあるが…。