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「教育(学)の消費社会論的転回」とは?~神代健彦著『「生存競争(ザバイバル)」教育への反抗』から学ぶ③~

 前回の記事では、<資質・能力>を目的・目標とした日本の教育課程が抱える問題点を克服する方策について、オランダ生まれの教育学者G・J・J・ビースタの議論を参考にして著者が構想している内容を要約してみた。それは、端的に言えば「子どもと世界(コンテンツ)と出会わせる」教育論であり、「教科する」授業によって子どもを「主体にする」営みを指すものであった。つまり、「教えることの再発見」と言ってもよいものであった。

 

 著者が構想するこの方策の内容は、私が現職時に行っていた「環境や他者との相互作用を尊重する中で、子どもを主体として育てていく」教育論に立つ授業実践とほぼ同様のことだと思い「今更」という不遜な感想をもった。しかし、私自身が考えていた理論的な意味付けについては不十分な点があったことを率直に反省した。

 

    そこで今回は、「子どもと世界(コンテンツ)と出会わせる」教育論の理論的な意味付けについて、私が強く共感した本書の「第4章 そして社会と出会う、ただし別の仕方で」の中で提案された「教育(学)の消費社会論的転回」という考え方を、本文の記述を基にしながらなるべく簡潔に紹介したいと思う。

 

 まず、著者は教育の目的(何のために教育するか)と目標(どんな力を付けさせるか)を経済的効果に重点を置いて語る傾向が世界的に強まっていること、そしてその経済的効果という観点からコンピテンシー(あるいは広く「新しい能力」一般)が強調されていることを認めている。また、グローバリゼーションの波に襲われている日本経済やその中で生きる個々人にとって、教育とはほとんど唯一のサバイバルの方法として理解されているという現実について強調している。

 

 次に、経済と教育との関連を考える上では、従来から需要サイドより供給サイドに注目してきたことを指摘している。その理由は、市場に供給される財やサービスの生産において、教育とはその生産性を決定する重要な要因だからである。もちろん生産性を決定する因子は、物的資本・天然資源・技術知識等があるが、何といっても人的資本が大きい。この人的資本は、労働者に対して教育などによって付与される資本の在り方であり、特に人口減少に伴う労働人口の減少が予想される日本社会においては、教育によって労働者一人一人の人的資本としての価値を高めておくことが大切だったのである。ただ、慢性的に需要不足が続いている「成熟社会=低成長時代」と言われる日本の市場経済においては、従来のような人的資本を高める教育では不十分である。今、教育に求められているのは、市場そのものを大きく変革するような供給サイドに立つ「イノベーションする人間」=「小さな企業家(アントレプレナー)」を育成することなのである。そして、その役割を担っているのが、前回までに概説してきた<資質・能力>を目的・目標とする教育課程であった。

 

 しかし、日本におけるこの教育のコンピテンシー化は、社会の教育依存/教育不信をエンジンとして駆動していると著者は警告する。では、どうすればいいのか。その回答として、著者自身が主張する「世界との出会いとしての教育」の理念は、人々の「消費」の感性を育てることを通じて、需要サイドから経済に貢献する可能性を孕んでいると述べている。つまり、教育による経済的効果を供給サイドからではなく、需要サイドから意味付けるというアイデアを提案しているのである。そして、日本の教育と教育学は、消費や消費社会を等身大で捉え、それらとポジティブな関係を結び直す必要があることを訴えて、これを「教育(学)の消費社会論的転回」と呼んでいるのである。

 

 以上のような内容を確認した上で、著者は次に社会学者の間々田孝夫著『21世紀の消費』における3つの文化的類型を取り上げながら、消費なるものの理解を深める議論を展開している。この議論はとても面白く、私にとって新鮮な視点だったので、ここで少し詳しく説明してみよう。

 

 間々田氏によれば、個々人は消費を規定する3つの文化によって影響を受けつつ消費生活を送っているという。第一の消費文化は、商品の機能的価値(何かの目的を達成するための道具としての価値)をより高い水準で実現することを目指し、消費の量的拡大を志向する消費文化である。また、第二の消費文化は、商品の関係的機能(何かへの帰属を示したり、誰かとの差別化・競争において意味をもったりする価値)を志向する消費文化である。

 

    ここで重要なのが、この2つの消費文化は、いわゆる「批判的消費社会論」によって鋭く批判されたため、教育学を含む人文社会科学では消費なるものが非常にネガティブに理解されることになったという点。特に教育学においては、これら2つの消費文化に抗して実質的な人格形成や生産主体の育成を図ることについて長く論じてきた。つまり、企業による人々の統制や支配という社会の構図を乗り越えるような教育を求めてきたのである。しかし、消費の内で必要を超えた消費の全てが害毒であるかのように扱うのは誤りであると、著者は断言している。

 

 そこで、著者が注目したのが、間々田氏が提示した第3の消費文化である。この消費文化は、商品の文化的価値(人々が消費を通じて何らかの主観的に好ましい精神状態を実現する価値)を志向する、つまり人間の精神の充実をもたらし得る好ましい消費を追求する文化である。例えば、音楽、美術、絵画、演劇等の鑑賞の喜び、趣味の楽しみ、嗜好品の飲食の満足感、気に入った雑貨を身近に置く時の喜び、温泉での解放感やくつろぎなど。このように文化を広く深く受容するような消費は問題ないのではないかと、著者は消費に対して批判的な教育学者や読者に問い掛けている。

 

    また、価値を消費(享受)するよりも、価値を生産(創造)する生き方をより高いものと考え、消費よりも生産を価値とする人間を育てようとする今までの教育の発想を再考する余地があるとも主張している。そして、わたしたちに必要な新しい教育と社会のビジョンは、互いが作り出したものを、その総体としての世界を、互いに享受し合い、互いに味わい合うこと、つまり消費(価値の享受)を軸にして人が育ち生きる教育と社会であること、さらに文化的価値の消費を軸にした第3の消費社会、あるいは「教育(学)の消費社会論的転回」とは、そんな対抗的イメージを含んでいることにも言及している。

 

 ほかの誰かが生み出してくれた価値を、その瑞々しい感性によって適切に受け取り、深く味わい、そして同時に、その消費行動自体に道徳的反省を加えることができるような消費者を育てること。言い換えれば、経済の需要サイドに立つ「文化的消費」を、同時にそれが「倫理的消費」でもあるように育てていくことが、これからの教育の課題になるのである。この課題を解決するためには、供給サイドの生産者の「創造能力」だけでなく、需要サイドの消費者の「享受能力」も育成していくことが大切なのである。

 

 他者の作り出した価値に対する細やかな感受性、価値を享受する感性を育てるというのが、前回の記事で紹介した「子どもと世界(コンテンツ)と出会わせる」教育である。つまり、教育の在り方を「消費」という視点からとらえ直してみることが、「生産」の視点だけからとらえる<資質・能力>を育てる教育論を脱構築する方策なのである。私は、このような著者の提案した「教育(学)の消費社会論的転回」という考え方について本書を通じて知り、大きく目を開かされた。ただ、実践的な側面から、その考え方をどのような具体的な教育実践論として結実させるのか。また現在、学校現場で具現化されている<資質・能力>論の教育実践とどのように相補的に実践していくのか、これから早急に問われるべき課題だと思う。私はこれまでに積み重ねてきた教育実践経験を基に、これらの課題を解決していきたいと今、考えている。