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気候危機の原因たる資本主義の本質について~斎藤幸平著『人新世の「資本論」』から学ぶ①~

 退職して約1週間経った。この間、勤務していた財団の総務課から退職に際しての関係書類が送付されてきて、健康保険の任意継続や雇用保険の受給に必要な離職証明書作成の手続きなどを行っていたので、まだ精神的に落ち着いた気分にはなれない。そこで、一昨日は5年ほど前から入会している同好者によるテニス教室に参加し、気分転換を図った。それまで会場にしていた地元国立大学の専用テニスコートが約1年前から新型コロナウイルスの感染防止のために使用禁止になり、ずっと開催できなかったテニス教室だったが、今月から別の市民テニスコートを利用して開催することになったのである。約1年ぶりにラケットを握ってラリー練習をしたが、思うように身体が動かずなかなか勘が戻らなかった。しかし、その後の試合形式の練習になると、少しずつ自分なりのストロークやサーブができるようになり、本当に久し振りに爽やかな汗を流すことができた。やっぱりスポーツは心身をリフレッシュさせてくれる。毎週決まった曜日に開催されるというので、来週からも参加しようと思っている。

 

    一方、私の読書生活の方はというと、1月のNHK・Eテレの「100分de名著/カール・マルクス資本論』」で講師役を務めた経済思想家で大阪市立大学准教授の斎藤幸平氏の著書で、昨年9月22日第1刷以来、既に第7刷を刊行し売上が8万部を越えているという『人新世の「資本論」』を2月に入ってから読んでいた。そして、やっと昨日読了した。私は読み終えて、「この本は、私が抱いていたマルクス主義の負のイメージを刷新させるもので、人類の存続に大きく影響を及ぼす気候危機の原因たる資本主義の本質を明らかにし、その問題点を克服する唯一の道を晩期マルクスの研究成果に基づいて理論的かつ実践的に提示した画期的なものだ!」と感嘆の声を上げ、年甲斐もなく高揚した気分に浸った。

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 そこで今回は、本書から学んだことの第1弾として「気候危機の原因たる資本主義の本質について」なるべく簡潔にまとめてみたい。そして、次回はその第2弾として「気候危機を克服する唯一の道としての〈脱成長コミュニズム〉について」言及してみたいと考えている。

 

 本書の「はじめに」の中で著者は、国連が掲げて各国政府や大企業が推進している「SDGs(持続可能な開発目標)」では地球全体で起こっている気候変動は止められず、目下の気候危機から目を背けさせる効果しかなく、現代版の「大衆のアヘン」(かつて、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」に対してマルクスが批判した言葉)だと痛烈に揶揄している。私は、「えーっ、どういうこと?」と最初から面食らってしまった。

 

 では、その理由や真意を著者はどう語っているか。簡単に言えば、それは資本主義の下での経済成長を前提にしているからであり、その世界的な構造から導き出せるのである。資本主義の本質は、人々の生活に必要な「使用価値」よりも人々の欲望を充足する「価値」を優先することで商品の希少性を高めることにより、経済を成長させていくことにある。そして、その資本主義を強力に発展させてきた「グローバル・ノース」(グローバル化によって恩恵を受ける領域およびその住民)と呼ばれる先進国の豊かな生活は、「グローバル・サウス」(グローバル化によって被害を受ける領域およびその住民)という「外部」から収奪したり、環境負荷等を転嫁したりすることによって支えられてきた。しかし、そのような「外部」はもはや地球上のどこにも存在しなくなった。当たり前のことだが、地球の環境資源は有限なのである。だから、資本主義の下での経済成長を前提として豊かな生活を続けながら「SDGs」による取組を実践しても、それは一時しのぎのアリバイ作りにしかならず、転嫁先がない限り「人新世」(人間の活動の痕跡が、地球の表面を覆い尽くした年代)において「気候変動による地球環境の破壊⇒人類の滅亡」は一層進むことになる。言い換えれば、私たちが気候危機に抜本的な手を打たなければ、ポイント・オブ・ノーリターン(もう二度と元の状態に戻れない地点)を超えてしまうかもしれないというのが真意。

 

 著者は本書の前半で上述のような内容を主張しているのだが、そのために「グローバル・サウス」の世界的な事例を少なからず取り上げている。例えば、ブラジル・ブルマジョーニョ尾鉱ダムの決壊事故やインド・バングラデシュの綿花栽培と縫製工場、インドネシアやマレーシアのパーム油生産等の事例。私たち先進国の生活は、このような「どこか遠く」の人々や自然環境に負荷を転嫁し、その真の費用を不払いにするような不公平で理不尽な差別や格差を前提条件としているのである。ところが、その不合理な暴力性は今まで私たち先進国の人々には不可視化されてきた。今、その実態が気候危機という言葉と共に知られるようになり、次第に可視化されてきている。そのために、私たちがその免罪符として「SDGs」による取組、例えばエコバックを買うことによって満足感を得ているとしたら、そのエコバックが作られる際の遠くの地での人間や自然への暴力性の現実について、ますます無関心になってしまうのではないか。著者は、アメリカの社会学者・イマニュエル・ウォーラーステインの「世界システム」論に基づきながら、そのように訴えている。

 

 私たち人類に残されている時間が少ないというのが、紛れもない切実な真実。であるならば、私たちはどうすればいいのだろうか。私たちに残された解決法はないのだろうか。著者は、これに対する回答として、あの『共産党宣言』や『資本論』の著者として有名なカール・マルクスの晩期における思想を拠り所にして、〈脱成長コミュニズム〉という未来図を提案している。次回は、この内容概要について私なりの要約で紹介したいと考えている。