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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

私が「好きなこと」とは何だろう?~國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』から学ぶ①~

 二女の夫が我が妻と子Mに会うため先週の金曜日夜に我が家に来て、その晩泊まり土曜日の夜まで丸一日過ごして帰った。その間、Mのオムツ替えや沐浴等の世話を甲斐甲斐しくしてくれたおかげで、私は久し振りで何をするでもなく、土曜日は久し振りに「暇」な一日を過ごすことができた。そんな中、書斎の椅子に身を沈めて、しばらく物思いに耽っていた時、ふと次のようなことが私の心の中に浮かんできた。…これから数週間経って二女と孫のMが我が家にいなくなったら、毎日このように「暇」な時間ができる。その時間を活用して、好きな読書をしたり、ブログを書いたり、たまにテニスをしたりしていれば、「退屈」はしないだろうけど、それで充実した人生を送ることになるのだろうか。…

 

 私は、ハッとした。…充実した人生を送るためには、社会的に有意義な仕事に打ち込むことが不可欠で、趣味や私的なことだけに生活時間を使うのは、人生を無駄にしていると私は考えているのか。また、無意識の深層にまで目を向ければ、生活の中で「暇」であることや「退屈」な状態になることを、私は恐れているのではないだろうか。…

 

 そんなことに思いが及んだ時、本箱に並べていた『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎著)に、私の目が自然に惹き付けられた。2年前の12月のNHK・Eテレ「100de名著」においてスピノザ著『エチカ』が取り上げられた際に、講師役を務めた國分氏の明快な論理的解説に魅入られ、その後すぐに馴染みの古書店で購入し、いつものことながら積読状態にしてあった本である。私は「今が読み時だ!」とばかりに、先週の土曜日から日曜日に掛けて暇を見つけて通読した。面白かった。「これぞ、哲学の本だ!!」と興奮した。 

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 そこで、本書の全体構成に即して再読しながら、今回から10回連続して私が面白いと感じたり自分の在り方について考えさされたりした内容をまとめた記事をアップしていこうと考えた。これだけの回数を掛けて同一の本について記事にするのは、当ブログを開設して初めての試みになる。なぜこのようなことを考えたかというと、本書で取り上げている問題が自分事として切実に受け止められたので、実存としての私が納得したことを何とか形にしておきたいと強く願ったからである。

 

 まず、本書の執筆意図や取り上げる問いについて触れておく。「哲学とは、問題を発見し、それに対応するための概念を作り出す営みである。」と考える著者が、それまで妥協していた「暇と退屈」の問題へ本腰を入れて取り組んだ過程を記録したもの、それが本書である。言い換えると、著者が本書で問いたいのは、「暇のなかでいかに生きるべきか」「退屈とどう向き合うべきか」という問いなのである。そして、著者はこの問いに対して、本書で一応の結論を導き出している。また、私が手にしている新版の本書には、旧版において残された問いをさらに追究して論じた試論も収録している。

 

 次に、今後の連続する記事の展開も考慮して、ここで本書の全体構成についてその概要に触れておく。「まえがき」と「あとがき」を除くと、次のような章立てになっている。

① 序 章 「好きなこと」とは何か?

② 第1章 暇と退屈の原理論-ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?

③ 第2章 暇と退屈の系譜論-人間はいつから退屈しているのか?

④ 第3章 暇と退屈の経済史-なぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか?

⑤ 第4章 暇と退屈の疎外論-贅沢とは何か?

⑥ 第5章 暇と退屈の哲学-そもそも退屈とは何か?

⑦ 第6章 暇と退屈の人間学-トカゲの世界をのぞくことは可能か?

⑧ 第7章 暇と退屈の倫理学-決断することは人間の証しか?

⑨ 結 論

⑩ 付 録 傷と運命-『暇と退屈の倫理学』新刊によせて

 

 さて、第1回目に当たる今回の記事は、①の序章の内容についてまとめながら、私なりの所感を綴ってみようと思う。

 

 著者は序章において、経済学者ジョン・ガルブレイスが1958年に著した『ゆたかな社会』を取り上げ、現代人は自分が何をしたいのかを自分で意識することができなくなってしまっている状況について指摘している。「ゆたかな社会」において金銭的・時間的に余裕ができた人は、その余裕を「好きなこと」のために使うことができるが、その「好きなこと」とは生産者が自分たちの都合のよいように広告やその他の手段によって作り出しているかもしれないと言うのだ。つまり、「好きなこと」とは、余裕がなかった時に「願いつつも叶わなかったこと」ではないのではないかと言っているのである。私は改めて、自分の趣味だと思っている「読書」「ブログ」「テニス」などについて問い直してみた。どれも自分がそのことに取り組んでいる時に「楽しい」「面白い」と感じていることではあるが、それらは「生産によって満たされる欲望」の影響を受けていないのかと問われれば、絶対的に否定することはできない。では、私は余裕を得た時に叶えたい「好きなこと」をどうとらえていたのだろうか。何だか自信がぐらついてくる。

 

 このことに関連して、著者はマックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノが1947年に書いた『啓蒙の弁証法』を紹介し、文化産業が支配的な現代資本主義社会においては、消費者の感性そのものがあらかじめ製作プロダクションのうちに先取りされていることを指摘している。つまり、私たち現代人は文化産業に「好きなこと」を与えてもらっていると言っているのである。かつて労働者の労働力が搾取されていると言われたが、現代では労働者の「暇」が搾取されているという訳だ。「暇」を得た人々は、この「暇」を何に使えばよいか分からない。このままだと「暇」の中で「退屈」してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得ることになってしまう。私は、まるで自分のことを言われているようで、恥ずかしくなってきてしまった。

 

 では、どうすればよいのだろうか?著者はこの疑問に対する回答者として二人の人物を紹介し、その思想を素描している。一人は、イギリスの社会主義者ウィリアム・モリス。その思想を簡潔にまとめれば、「革命が到来し、私たちが自由と暇を得られれば、その時に大切なのは、その生活をどう飾るかだ。」ということ。モリスは、消費社会が提供するような贅沢とは違う贅沢について考えていたようである。著者の國分氏は、この答えを称賛し、参考になると評価している。だが、もう一人のアンカレ・ジュパンチッチという哲学者の「大義のために死ぬのをうらやましいと思えるのは、暇と退屈に悩まされている人間だ。」という衝撃的な指摘には同意しない。ただし、人が暇や退屈に悩まされている時、何かに「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望するものであることは認めている。この点、私も同感である。

 

 著者がこの二人の思想を紹介したのは、著者なりの「暇のなかでいかに生きるべきか」「退屈とどう向き合うべきか」という問いへの回答内容を用意するための複線なのだと思う。著者の回答内容(結論)は、モリスの思想がその方向性を、ジュパンチッチの思想がその限界性を示しているのだ。読者の皆さんも今からどんな結論に至るのか楽しみにしてほしい。

 

 それにしても、私の「好きなこと」とは何だろう?連続10回の記事を書き終えるまでには、明確にさせたいものである。あ~あ、なかなか眠れぬ夜が続きそうだ。