ようこそ!「もしもし雑学通信社」へ

「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「退屈」する人間は、苦しみや負荷を求めている?~國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』から学ぶ②~

 2011年3月11日に東日本大震災が起こり、昨日はそれから10年目を迎えた日であった。私はテレビの特別報道番組を視聴しながら、改めて地震津波等による犠牲者に対して謹んで追悼の意を表した。このような不条理な災害に見舞われた遺族や関係者の方々から見たら、「退屈」な気分を抱えて悩んでいる私など、「何を甘えているのか。生きているだけで有難いと思え。」と叱られそうだ。しかし、私にとってこの実存的な問題は、やはり今しっかりと面と向かって対峙すべきものだと考える。「自分に与えられた生命を精一杯生き抜くために、今の私には必要な問題なのです。」と、心の中で控えめに答えつつ、この連続記事を綴っていきたい。

 

 さて今回は、この10回連続記事の2回目になる。本書の「第1章 暇と退屈の原理論-ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?」の中で特に印象深かった内容をまとめながら、私なりの所感をなるべく簡潔に綴ってみよう。

 

 まず、著者はフランスの思想家ブレーズ・パスカル著『パンセ』を取り上げ、「気晴らし」についての見事な分析を解説している。その中で、人間は部屋にじっとしてはいられず、必ず気晴らしを求め、それが熱中できるものであるためには、負の要素がなければならないと紹介している。言い換えれば、「退屈」する人間は、苦しみや負荷を求めるものなのである。

 

    また、同様なことを言った哲学者フリードリッヒ・ニーチェ著『悦ばしき知識』も取り上げ、「退屈」から逃れるためであれば、人間は外から与えられる負荷や苦しみなどものの数ではなく、自分が行動へと移るための理由を与えてもらうためなら、喜んで苦しむことを紹介している。また、哲学者レオ・シュトラウスの分析を参考にして、このような欲望が人々を戦争や革命、ファシズムに駆り立てることは、今までの歴史が実証しており、これを単なる一つの見方だと済ませる訳にはいかないことに警鐘を鳴らしている。

 

    私は、今まで人生の岐路に立った時、安易な道と困難な道が選択できる場合は、迷わず困難な道を選んできたと思う。それは「自分なりの理想や信念を貫きたい」という強い思いがあったからと確信していたが、もしかしたらパスカルニーチェの言うように、「退屈」から逃れるために敢えて苦しみや負荷を求めていたのかもしれないなあと、自分を俯瞰的に振り返ってみてそう思う。無意識の内に、私は「退屈」を嫌い、「退屈」から逃れたかったのかもしれない…。

 

 次に、著者は序章で言及した英米分析哲学を代表する哲学者バートランド・ラッセルを再登場させ、その著書『幸福論』を取り上げて、現代の「食と住を確保できるだけの収入」と「日常の身体活動ができるほどの健康」をもち合わせている人々(今の私もその一人であるが…)を襲っている日常的な不幸について論じている。そして、この非日常的とは異なる不幸はその原因が分からないという独特の耐え難さがあり、この点について対立的な立場にある大陸系哲学を代表する哲学者マルティン・ハイデッガーも同様に扱っていることを取り上げ、20世紀初頭の同時期を生きた二つの偉大な知性が全く同じ危機感を抱いていたことを強調している。

 

 では、ラッセルの退屈論を簡単に見てみよう。ラッセルの論を簡潔にまとめれば、「退屈の反対は快楽ではなく、興奮である。」ということになる。つまり、「退屈」している人間が求めているのは楽しいことではなくて、興奮できることだと言っているのである。このことから、著者は快楽や楽しさを求めることがいかに困難かという事実を見出し、「問題になるのは、いかにして楽しみ・快楽を得るかではなく、いかにして楽しみ・快楽を求めることができるようになるかだ。」と主張している。この考えは大変重要で、後々、著者が導き出す結論にとって大きく影響を与えるものになる。ただし、著者は、このラッセルの幸福論には不幸への憧れを生み出すという問題点が孕んでいると、読者に注意を促している。

 

 私が最初に通読した時には、「いかにして楽しみ・快楽を得るかではなく、いかにして楽しみ・快楽を求めることができるようになるかだ。」の部分が正直ピンとこなかった。しかし、今回改めて精読してみて、この考えのもつ重要さを私なりに認識した。簡単に言えば、求めるのは「興奮」ではなく「楽しみ・快楽」であり、重視なのは「結果」より「過程」であるということ。つまり、大切なのはどのようにして楽しみ・快楽という「結果」を得るかではなく、どのようにして楽しみ・快楽を得る「過程」を楽しむかということなのである。

 

 最後に、著者はもう一人の哲学者を登場させている。それは、ノルウェーの哲学者ラース・スヴェンセンである。そして、「退屈」の百科事典のような彼の著書『退屈の小さな哲学』を取り上げ、「退屈が人々の悩み事になったのはロマン主義のせいだ。」という主張を紹介している。ロマン主義とは18世紀にヨーロッパを中心に現れた思想であり、ロマン主義者は一般に「人生の充実」を求める。しかし、それが何を指しているか誰にも分からないから、「退屈」してしまうというのが彼の答えだと解説している。

 

 近代以降、それまでの共同体的な意味体系が崩壊して、生の意味が共同体的なものから、個人的なものになった。その中から、生の意味は自らの手で獲得すべきだと考えるロマン主義が生まれた。そして、ロマン主義は、普遍性よりも個性、均質性よりも異質性を重んじ、他人と違うことを私たち現代人は求めていると言うのである。しかし、そんなものが簡単に獲得できるはずもなく、ロマン主義者たる私たち現代人は、「退屈」に苦しむという訳である。

 

    確かに、少なくとも私は「生の意味」や「人生の充実」を必死に探し求めており、そのために今、原因のはっきりしない「退屈」に襲われつつあり、それを恐れているように思う。それに対して、スヴェンセンは「だったら、ロマン主義を捨て去ればよい。」と答える。しかし、私に根付いているロマン主義的な心性を、そんなに簡単に捨て去ることなどできるだろうか。「高望みをしないで、現状に満足しろ。」とでも言うのか。また、私が襲われている「退屈」なる気分は、このロマン主義的な「退屈」のみを指しているのだろうか。この点、著者も「退屈」をロマン主義に還元する姿勢に対して支持できないと明言し、彼の解決策に全く納得していない。私も同感であり、再度「退屈」についての思索を深める必要を痛感している。

 

 それにしても、私を襲っている「退屈」の正体とは何で、それにはどのような起源があるのだろうか。次回の記事で扱う「第2章 暇と退屈の系譜学-人間はいつから退屈しているか?」は、私にとって意外な視座である人類史的なアプローチから、上述のような疑問を解決する示唆を与えてくれるのである。日中、孫Mの鳴き声を聞く度に、急いで階下に降りて抱っこして寝かし付ける世話をする合間を縫って、なるべく早く次回の記事を綴りたいと考えている。