ようこそ!「もしもし雑学通信社」へ

「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

気晴らしと絡み合った「退屈」は、人間の生の本質?~國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』から学ぶ⑥~

 ここ数日、昼夜を問わず孫Mがぐずった時に寝かし付ける世話に追われている。そのために、上腕筋が張ったり睡眠不足になったりしてきて、多少疲れ気味である。その上、一人目の4歳の孫Hが一昨日に嘔吐の症状が起き、病院でウイルス性胃腸炎の診断を受けたので、昨日は保育園を休んで自宅療養していた。その早朝に長女からラインで「午後から自分はどうしても仕事のために出勤しなくてはならないのでHの世話をする人がいなくなるから、数時間の世話をお願いできないか。」との依頼があった。現在、私は一日中フリー状態なので、孫たちのためにできることがあれば、何でもしてやりたい。私はラインで「了解👌」の返事を送り、Mは二女と妻に任せて午後には長女宅を訪れ、室内で3時間ほど久し振りにHと遊んだ。可愛かった!楽しかった!!でも、さすがに昨夜は疲れ切ってブログの記事を書く気力が萎えた。今朝になり少し回復していたので、やっとパソコンを開くことができた。

 

 さて今回は、本書に関する10回連続記事の復路の初回、通算すると6回目の記事になる。いよいよ退屈論の最高峰とも言える、哲学者マルティン・ハイデッガー著『形而上学の根本諸概念』を取り上げている「第5章 暇と退屈の哲学-そもそも退屈とは何か?」を再読して、著者の主張する内容の要諦をまとめながら、簡単な所感を付け加えてみたい。

f:id:moshimoshix:20210309161511j:plain

 ハイデッガーは、『形而上学の根本諸概念』の中で、哲学者オスヴェルト・シュペングラーが著した『西欧の没落』のヨーロッパ文明論に言及し、この時代診断は私たちを少しも「感動させない」が、だからといって「流行哲学にすぎない」とバカにして片付けてもいけないと言っている。流行するにはそれなりの理由があると考えたのである。では、その理由とは何か。彼は、この本が流行ったのは、ヨーロッパ人が確かに何らかの「没落」の感覚をもっていたからだと考えたのである。そして、そこから彼は考えを進めていき、ついには次のような言葉に至っている。…結局、ある種の深い退屈が現存在(人間)の深淵において物言わぬ霧のように去来している。…この「退屈」こそ私たちにとっての根本的な気分であると、ハイデッガーは言うのである。つまり、私たちは「退屈」の中から哲学するしかない、と。

 

 こうしてハイデッガーは、この後「退屈」について長い論究を始めるのだが、著者はその内容についてかなり詳しくかつ分かりやすく解説している。私はその解説内容の要諦をこれからまとめるつもりだが、それは著者が解説しているハイデッガーの論究内容を孫引きするような要約になることを先にお断りしておきたい。では、始めよう。

 

 ハイデッガーは、最初に「退屈」は誰でもが知っていると同時に、誰もよく知らない現象だと言う。知っているが、それについて問われるとはっきりと述べることはできない。何だか矛盾した内容を言っているが、だからこそ彼は、みんながぼんやりと知っている「退屈」を、次のような二つに分けて考えることを提案する。

① 何かによって退屈させられること。(退屈の第一形式)

② 何かに際して退屈すること。(退屈の第二形式)

 

 ①は受動形で、はっきりと退屈なものがあって、それが人を退屈という気分に引きずり込んでいるということ。彼は、これを「4時間先に到着する列車を待つために、ある駅舎で腰掛けている描写」という非常に分かりやすい日常的な事例を挙げて説明している。そして、この場合の「退屈」は、簡潔に言えば物が言うことを聴いてないために、<空虚放置>(空しい状態に放って置かれること)され、そこにぐずついた時間による<引きとめ>が発生することによって起こっていると分析しているのである。

 

    それに対して、②は何かに立ち会っている時、よく分からないのだがそこで自分が退屈してしまうということ。何がその人を退屈させているかが明確でなく、退屈が周囲を覆い尽くしてしまうような感じである。彼は、これを「パーティーに参加し、美味しく趣味のよい夕食をいただいたり、親しい仲間たちと面白く愉快な会話を楽しんだりした一連の描写」という極めて印象的な事例を挙げて説明している。そして、この場合の「退屈」を彼は分析しようと試みるが、①のような説明は簡単にはできない。しかし、根気強く論究していった結果、おおよそ次のように分析する。…自分によって停止した時間へと<引きとめ>られたために、自分の中で空虚が成育するという仕方で<空虚放置>の中へと滑り落ちるがまま放任されている。…この<引きとめ>と<空虚放置>という2つの要素が不可分の関係にある複合体こそが、私たちを退屈させる「何だか分からない」ものなのである。

 

 次に、著者はこの退屈の第二形式と本書の議論である「暇と退屈の類型」表を組み合わせた考察をしている。そして、退屈の第二形式は、大変謎めいている<暇ではないが退屈している>という第4カテゴリーの本質を言い当てたものではないか、また、それは私たちが普段もっともよく経験する退屈ではないかと推察して、こうも言っている。第4カテゴリーは、暇つぶしと退屈の絡み合った何か-生きることはほとんど、それに際すること、それに臨み続けることではないだろうか、と。著者は、ハイデッガーが退屈の第二形式を発見したことの意義は本当に大きいと評価している。その理由は、第二形式が何か人間の生の本質を言い当てていると言ってもよいからである。

 

 この点について、ハイデッガー自身、退屈の第一形式と第二形式を比べながら、次のようなことを言っている。

① 第一形式のような退屈を感じている人は、仕事の奴隷になっており、時間を失いたくないという強迫観念に取り憑かれた「狂気」であり、大いなる「俗物性」へ転落している。

② 第二形式のような退屈を感じている人は、時間に追い立てられてはなく、自分に向き合うだけの余裕もあるから、「安定」と「正気」であり、人間的生の本質を生きている。これは、第一形式よりも「深い」退屈である。

 

 以上のように退屈を二つの形式に分けて鋭く分析したハイデッガーは、この後、退屈の第三形式について語る。それは、驚くことに「なんとなく退屈だ」という短い一文なのである。これこそ、最高度に「深い」退屈。では、彼は具体的にどのような事例を挙げて説明しているのだろうか。ところが、そのような事例はない。ただ次のような具体的な話をしている。…日曜日の午後、大都会の大通りを歩いている。するとふと感じる、「なんとなく退屈だ」。…つまり、第三形式とは、「なんとなく退屈だ」と感じることであり、「なんとなく退屈だ」という声を聞き取ることであり、また「なんとなく退屈だ」というこの声そのもののことである。そして、この第三形式からこそ、他の二つの形式が発生するのである。

 

 ハイデッガーは、この第三形式についてもこれまでと同様に、<空虚放置>と<引きとめ>の二つの観点から分析する。<空虚放置>に関しては、人は全面的な空虚の中に置かれ、全てがどうでもよくなる。いかなる気晴らしもできない。「なんとなく退屈だ」という声に耳を塞ぐこともできないのである。また、<引きとめ>に関しては、人は何一つ言うことを聴いてくれない場所に置かれる。何もないだだっ広い空間にぽつんと一人取り残されているようなもの。そうなると、人はあらゆる可能性が拒絶され、自分自身に目を向けることで、自分がもっている可能性に気が付くのである。この<引きとめ>は、解放のための可能性を教えるきっかけに他ならない。

 

 最後に、ハイデッガーはこの可能性とは何かを問う。答えはこれまた驚くほどに単純である。「自由だ!」これが彼の答えである。退屈という気分が私たちに告げ知らせていたのは、私たちが自由であるという事実そのものである、と。しかし、この段階ではまだ自由は可能性に留まっている。では、それをどう実現するか。ここでの答えも驚くほど単純である。「決断することによってだ!」と言うのである。彼は、退屈する人間に自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよと言っているのである。これがハイデッガーの退屈論の結論である。

 

 この結論に対して、著者は納得することができず受け入れ難いと批判している。しかし、彼の退屈の第二形式の発見については、特に極めて豊かなものがあり、<暇と退屈の倫理学>を考える上で大きなヒントになると高く評価している。私には著者のハイデッガーの退屈論に対する批判根拠についてよく分からなかったが、退屈の第二形式の分析内容が本書の結論の視座を提示していることは何となく分かった。それにしても、本章を再読することで、私を襲った「退屈」という気分をハイデッガーはここまで分析していたのだと認識することができたことは、私にとって大変有益な作業になった。

 

 それにしても、最近は「暇」もなく「退屈」でもない日々が続く中で、このような記事を書いているというのは、どういうことなのだろう?