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「退屈」の第二形式を生きる人間は、時に<動物になること>がある?~國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』から学ぶ⑧~

 最近、私の腕の中で入眠する前の孫Mが、じっと私の眼を穴が開くほど見つめることがある。純真無垢な眼でじっと見つめられると、こちらの心まで浄化されていくような気がする。私にとってこの「まなざしの交換」は、聖的な儀式のようだ。何となく敬虔な気持ちになっていく。我が国では昔から「7歳までは神の子」という言葉が伝承されてきたが、まだ生まれて2か月も経っていないMは、“神”の領域に存在するのかもしれない。乳児の世話は、授乳やオムツ替え、寝かし付け、沐浴等、大変な労力を要するが、このような「まなざしの交換」の時間ももつことができることを、どれぐらいの男性は経験しているだろうか。実はかく言う私も自分の娘たちが乳児期に「まなざしの交換」をしたことはほとんどなく、偉そうに言える資格はない。しかし、遅ればせながら老年になり孫育てをさせてもらって、男性も育児をすることが自身の人間的成長を促すものだと実感したので、世の男性諸氏には、子育てでも孫育てでもいいのでぜひ経験してほしいと願っている。

 

 さて今回は、本書に関する10回連続記事シリーズの8回目になる。マルティン・ハイデッガーの退屈論を批判的に検討してきた著者が、ハイデッガーの結論とは違う結論に至ることを目的にして書いた「第7章 暇と退屈の倫理学-決断することは人間の証しか?」。そこで、私は本章の中で特に強い共感をもつことができた内容の概要を、前回までに取り上げた議論を踏まえながらまとめてみたいと思う。したがって、もし今回の記事を初めて読む読者がいるようだったら、大変申し訳ないが第1~7回までの記事にも目を通してくだされば理解しやすいと思うのでご協力のほどを…。では、始めよう。

 

 著者は、ハイデッガーの結論と提案を次の二項目に要約した上で、再度反論している。

① 人間は退屈し、人間だけが退屈する。それは自由であるのが人間だからである。

② 人間は決断によってこの自由の可能性を発揮することができる。

まず、①については、動物は「環世界」を生きるが人間は「環世界」を生きないという信念に基づいているが、この信念は間違っていると著者は反論する。人間も「環世界」を生きている。人間でも<もの自体>を認識することができないことは、当然の事実なのである。にもかかわらず、ハイデッガーは人間だけが自由であると言うために、このような無理をしているのである。この点については②の決断主義にも言える。だが、それだけではない。ハイデッガーは決断について語る時に「決断した後の人間のこと」という大事なことを忘れている。一体、決断した人間はどうなっていくのか。これが完全に抜け落ちていると指摘するのである。

 

 著者は、決断した人間のその後について次のように語っている。決断を下した者は、決断の内容に何としてでも従わねばならならない。そうでなければ決断ではない。したがって、決断した人間は、決断した内容の奴隷になる。別の側面から言えば、彼は決断によって「なんとなく退屈だ」の声から逃げることができるのである。だから、彼は今、快適である。やることは決まっていて、ただひたすらにそれを実行すればいいのだから。ところで、この決断後の彼の態度は、今までのハイデッガーの退屈論で議論した「退屈」の何番目かの形式に似てはいないだろうか。そう、第一の形式である。第一の形式において人間は日常の仕事の奴隷になっていた。なぜわざわざ奴隷になったのかと言えば、その方が快適だったからであり、「なんとなく退屈だ」という声を聴かなくて済むからであった。このことから、必然的に次のことが言える。そう、第三形式の退屈を経て決断した人間と、第一形式の退屈の中にある人間はそっくりなのである。ハイデッガーは、第一形式について、そこには甚大な自己喪失があると言っていた。だとするならば、第三形式についても同様なことを言わなければならない。決断する人間にも甚大な自己喪失がある、と。

 

 また、ハイデッガーは第二形式の退屈の中にいる人間は、付和雷同的で周囲に話を合わせるという否定的な有り様の姿を描いていた。しかし、第三形式=第一形式に比べるにならば、そこでの人間の生は穏やかである。もちろん第二形式においては何かが心の底から楽しいわけではなく、ぼんやりと退屈はしている。多少の「自己喪失」はあるかもしれない。でも、第二形式では自分に向き合う余裕がある。そう考えれば、この第二形式こそは、「退屈」と切り離せない生を生きる人間の姿そのものではないのか。気晴らしと「退屈」とが絡み合った生活を送ることこそが、人間の「正気」ではないのか、著者はそう反論するのである。

 

 さらに、著者は第二形式の退屈を生きる人間の姿に対するハイデッガーの否定的な評価を不当だと重ねて批判する。そして、その理由を、退屈の第二形式において描かれた気晴らしとは人間が人間として生きることのつらさをやり過ごすために開発してきた知恵と考えられるからだと述べる。そう、「退屈」と向き合うことを余儀なくされた人類は文化や文明と呼ばれるものを発達させてきた。そうして、芸術が生まれ、衣食住を工夫して、生を飾るようになった。人間は知恵を絞りながら、人々の心を豊かにする営みを考案してきたのである。これらはどれも存在しなくても、人間は生きていけるような類の営みである。ある意味で贅沢なものなのである。なぜハイデッガーは、この人類の知恵を受け入れないのか。著者は、その理由をハイデッガーの特殊な人間観がそれを邪魔していたと考える他ないと、断言している。

 

 私が強い共感をもった内容の一つ目が長くなった。取り急いで、話題を二つ目の内容に移そう。それは、以上の議論を踏まえた上での、全く別の視点から人間と動物の区別の問題について言及している内容で、第二形式の退屈を生きる人間の生が崩れることがあることについて。例えば、芸術作品とか新しい考えとかと出合った際にある種の衝撃を受け、自己の「環世界」を破壊された人間が、そこから新たな思考を始めるような時のことである。その人の「環世界」に不法侵入してきた何らかの対象が、その人を掴み、放さない時、その人はその対象に<とりさらわれ>、その対象について思考することしかできなくなる。その時、人はその対象によってもたらさせた新しい「環世界」の中に浸るしか他なくなる。このように衝撃によって<とりさらわれ>て、一つの「環世界」に浸っていることが得意なのが動物であるなら、この状態を<動物になること>と称することができる。人間は時に<動物になること>がある。「退屈」することを強く運命付けられていた人間の生において、ここに人間らしさから逃れる可能性も残されているのであり、それが<動物になること>という可能性なのである。

 

 著者は、人間にとって<動物になること>が可能であることの根拠はおそらく人間の極めて高度な「環世界間移動能力」の高さにあると言っている。人間は自らの「環世界」を破壊しにやってくるものを、容易に受け止ることができる。自らの「環世界」へと不法侵入を働く何かを受け取り、考え、そして新しい「環世界」を創造することができるのである。このことが、他の人々にも大きな影響を与えるような営みになることもしばしばあるが、おおむね人間は人間的な生を生きざるを得ない。しかし、人間にはまだ人間的な生から抜け出す可能性、つまり<動物になること>の可能性がある。もちろん人間は後に再び人間的な生へと戻っていかざるを得ないが、ここにこそ人間的自由の本質があるのだとしたら、それはささやかではあるが確かな希望であると、著者は力強く主張している。

 

 この<動物になること>とは、ある対象に<とりさらわれ>て、その対象について思考することしかできなくなり、一つの「環世界」に浸っている状態なのだから、「退屈」のない、あるいは「退屈」をしないで生きる姿だと私は理解したが、このことと「退屈」の第三形式=第一形式とはどのような関係にあるのかが今一つよく分からなかった。どなたか本書を読んだ方で私にご教示できる方は、ぜひ「コメントを書く」欄にその内容を記して教えてください。

 

 最後は、読者へのお願いごとを書いてしまったが、これは私がブログも「双方向的な」機能を持つSNSの一種ととらえていることによる無謀な仕儀である故、平に平にご容赦の上ご協力のほどをお願い申し上げまする。(この文章末および文末表現は、一体誰のマネなの?…)