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なぜ人は「退屈」するのか?私は「退屈」とどのように向き合うのか?~國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』から学ぶ⑩~

 いよいよ本書に関する10回連続記事の最終回になった。今回は、前回からの宿題である、著者の総括的な結論を受けて、私なりに今までの生き方や在り方を振り返りつつ、私を不意に襲った実存的な問題(「暇」の中で「退屈」してしまうという事態にどのように向き合うかという問い)に対する具体的な回答内容をまとめようと思うが、その前に本書『暇と退屈の倫理学』新刊の末尾に所収されている付録「傷と運命」の中で、私にとって大きな意味をもつと思った内容について触れておきたい。

 

 著者が、「なぜ人は退屈するのか?」という本書の主題に関わる基本的な問いに答えるための準備作業として執筆したのが、付録「傷と運命」である。この文章は、「退屈」という不快な現象の存在そのものを問う、<暇と退屈の存在論>へと向けた一つの仮説を提示したものであり、私にとってはその内容が実感的に納得できるものであった。以下、その概要について述べていこう。

 

 著者は精神医学等で「精神生活にとっての新しく強い刺激、興奮状態をもたらす未だ慣れていない刺激」を意味する「サリエンシー」という専門用語を導入して、「自己の身体」や「自己」がサリエンシーへの慣れへのメカニズムから生起することについて、おおよそ次のように解説している。

 

    人間が繰り返し同じ現象を体験することでそれに慣れていく過程とは、その現象がもっている「こうすると、こういうことが起きる」という反復構造を発見し、それについての予測を立てることができるようになる過程だと考えられる。つまり、サリエンシーに慣れるとは、予測モデルを形成することなのである。しかし、環境やモノ、他者の反復構造には、その反復される事象の再現性には度合いがある。予測モデルが立てにくい現象もあれば、実に再現性を備えた現象もある。精巧な予測モデルを立てられる現象、つまり自分と地続きのように感じられる現象は、身近な現象と感じられるであろう。逆に、予測モデルが不安定であらざるを得ない現象は、疎遠なもの、場合によっては不気味なものに感じられるかもしれない。

 

 すると、この予測モデルの再現性の度合いという考え方から、「自己」と「非自己」の境界線そのものがこの度合いによって決められていることが推測される。おそらく、予測モデルが立てられる現象の中で、最も再現性の高い現象として経験され続けている何かが、「自己の身体」や「自己」として立ち現れるのである。このことは、環境やモノや他者を経験する「自己の身体」や「自己」は、最初から存在しているのではないということを言っている。つまり、まず「自己」があって、それが環境やモノや他者というサリエンシーを経験しているのではなく、「自己」そのものがサリエンシーへの慣れの過程の中で現れるということである。

 

    では、慣れることが到底不可能なサリエンシーに遭遇した時、人はどうなってしまうのだろうか。この点に関して、著者は小児科医の熊谷晉一郎の「疼痛研究」において紹介されている、慢性疼痛(身体組織から原因らしきものがなくなったにもかかわらず痛みが治まらない疼痛のこと)の謎を解き明かしつつある状況を取り上げて、次のように答えている。

 

 疼痛研究をリードする研究者A・ヴァニア・アプカリアンによれば、慢性疼痛とは、急性疼痛(損傷や炎症から来る痛みのこと)の刺激が消失した後にも、神経系の中に「痛みの記憶」が残ってしまう状態と考えられている。このことは、「記憶」も痛みの原因たり得ることを意味している。もともと「記憶」は全て痛む。それはサリエンシーとの接触の経験であり、多かれ少なかれトラウマ的だからである。だが、痛みを和らげ興奮量を抑えようとする生命の傾向は、そうしたサリエントな経験への慣れを絶えず作り出す。このメカニズムによって、私たちは傷を負いながらも、痛みをほとんど感じることなく生きていくことができるのである。ところが、慢性疼痛は、何らかの原因によって痛みの記憶の持続が発生したと考えられる。

 

 さらに、著者は熊谷が紹介している慢性疼痛に関する次のような興味深い事例を取り上げている。アプカリアンによる実験によると、慢性疼痛を感じている患者は、外部から与えられる急性疼痛の痛み刺激を「快」と感じるというのである。このことは、慢性疼痛患者が潜在意識の中では急性疼痛を求めている可能性を示唆している。慢性疼痛が起こっている場合、人はサリエンシーに反応しやすくなり、物事を無意識のまま自動的にこなすことができず、過剰に過去の「記憶」を振り返り、自己に対する反省を繰り返してしまう状態に陥っているのである。言わば、痛みの慢性化は、「記憶」という傷跡の過度の参照を伴っているということである。

 

 以上のような議論を踏まえて、著者は「なぜ人は退屈するのか?」という問いについて、次のような一つの仮説を提示している。

 

 人はサリエンシーを避けて生きるのだから、サリエンシーのない、安定した安静な状態、つまり何も起こらない状態は理想的な生活環境に思える。ところが、実際にそうした状態が訪れると、何もやることがないので覚醒の度合いが低下する。すると、心の中に沈殿していた痛む記憶がサリエンシーとして内側から人を苦しめることになる。これこそが、「退屈」の正体ではないだろうか。絶えざる刺激には耐えられないのに、刺激がないことにも耐えられないのは、外側のサリエンシーが消えると、痛む記憶が内側からサリエンシーとして悩ませるからではないか。

 

 この仮説は、私にとって実感的に納得がいくものである。1月まで勤務していた職場では強烈なサリエンシーとしてのKによって絶え間ない刺激があり、私はそれに耐えかねて退職したが、今度は完全にフリー状態になりそうな事態を迎えると何もサリエンシーがなくなり、それにも耐えられないという「退屈」の予感に覆われそうになったことは、まさにこの仮説の通りではないだろうか。また、著者の次の指摘にも、深く首肯してしまった。…サリエンシーに慣れる過程の蓄積こそが個人の性格を作り出す。だからこそ、退屈に耐えられる度合いは個人差が激しい。常にサリエントな状況に置かれ、落ち着いた時間をほとんど過ごさずに生きてくることを余儀なくされた人(まるで私のことを指しているようだ!)は、自らが直面した諸々のサリエンシーに慣れることが困難だったろうから、何もすることがなくなるとすぐに苦しくなってしまう。…

 

 きっと私は「退屈」に対する耐性力が乏しい性格なのであろう。だから、孫Mの世話をする期間が終わったら、きっと「暇」の中で「退屈」してしまうのではないかという予感に襲われて、不安になってきたのだと思う。そのような性格の私は、これから「暇」の中で「退屈」してしまうという事態にどう向き合っていけばいいのだろうか。やっと、前回からの宿題をしなければならない必然性に迫られてきた。以下、私なりに考えたその回答内容のいくつかを記して、本書に関する10回連続記事シリーズの最終回を閉じたいと思う。

 

 著者による本書『暇と退屈の倫理学』の総括的な結論は、「<人間であること>を楽しむことで、<動物になること>を待ち構えることができるようになること」であった。このことを踏まえた上で、私なりのこれからの生き方や在り方を考えた時、次のような具体的な内容をイメージすることができた。

○ 「衣食住」という日常生活において、我が家の家計のレベルに合った贅沢をしたり、生活を豊かに彩るような創意工夫を凝らしたりする。

○ 私にとっての気晴らしとも趣味とも言える「読書をする」「ブログ記事を書く」「カラオケをする」「スポーツ(ウォーキングも含む)をする」という文化的・スポーツ的活動を、自分のパフォーマンスの質的レベルを上げるように実践しながら、より深く享受する。

○ 私自身が新型コロナウイルスのワクチンを接種した後、「哲学対話」や「読書会」等の社会的・文化的な交流活動を、感染予防策を徹底した上で定期的に開催するための事務局を立ち上げ、できるだけ早い時期に開設する。

私はこれらのイメージ内容を具現化するために、無理をせずにこれから行動を起こしていこうと思っている。さて、どうなるのだろうか。その過程及び結果については、機会を見つけて当ブログの記事で近況報告として綴っていくつもりである。