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身近に存在する祖父は、孫にとってどのような意味をもつのか?~湯本香樹実著『西日の町』を読んで~

 二女と孫Mが自宅マンションへ戻ってから、日常生活に時間的・精神的な余裕ができたので、今までに録画保存していた数本の映画を再生して視聴した。その中で、初孫Hの満4歳の誕生日だった本年2月11日にNHK総合で放送された『岸辺の旅』が、私の心に不思議な波紋を広げていった。本作品は、2015年に第68回カンヌ国際映画祭・「ある視点」部門に出品され、黒沢清氏が監督賞を受賞したことで評価を高めた映画である。また、失踪した後に霊として戻ってきた夫・優介役の浅野忠信と、その妻・瑞希役の深津絵里が、幻想的な旅路の中で微妙に揺れ動く夫婦の内面を繊細に演じている点も好評を得た名作である。

 

 私は本作品を視聴した後、その余韻をじっくりと味わっている内に、原作者の湯本香樹実という作家に興味が湧いてきて、今度は活字で表現された他の小説を読んでみたくなった。私は早速、馴染みの古書店に出掛け、書棚に並んでいた幾つかの作品の中から『西日の町』という作品を選んだ。その理由は、本書の主な登場人物が、若い母親と十歳の「僕」、そして「てこじい」という祖父だったからである。私は、「僕」にとって「てこじい」の存在がどのような意味をもっているのかを知りたかったのである。そう、そのことは「孫Hにとって身近に存在する私の意味」を自覚することにも繋がると考えたからである。

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 そこで今回は、まず本書のあらすじを簡単に紹介した上で、「孫にとって身近に存在する祖父の意味」という視点を中心にした私なりの読み取りと、その所感をまとめてみたい。

 

 本書は、今は医科大学の先生をしている「僕」が、かつて北九州の小倉を思わせる町の、夕日の当たるアパートに、母親と二人で住んでいた少年の頃の思い出を描いている。父親は、他の女性とどこかで家庭を持つようになり、母親と「僕」を捨てていた。母親は、自分に社宅の便宜を与えてくれた上役との不倫関係に悩み、妊娠した赤ん坊を産むか産まないか決断できずにいる。そこに昔は無頼の限りを尽くし、今はホームレス同然になっている祖父「てこじい」が現れて、彼らと同居を始める。「てこじい」は、ほとんど六畳の端にうずくまって動かない。母親は、父親である「てこじい」に対してわざと意地悪く、またある時には気を遣うように優しく接する。「僕」は、母親と「てこじい」の複雑な親子関係における歪んだ愛情のかたちを観察しながら、次第に大人の世界に入っていく気持ちを受け入れるようになる。

 

 それにしても、なぜ「てこじい」なのか?おそらく小さい頃からがむしゃらな性格で、「がんがんてこ」(勢いのよい赤子の意味か?)と呼ばれていたからではないかと思う。さらに、六畳間で「てこ」でも動かなかったからかも知れない。とにかく「僕」と母親は、そう呼んでいたようだ。その「てこじい」が心臓と肝臓を病魔に侵されて先行きが怪しい状態の中、無一文で居候になっていたお礼にと、遠い海まで潮干狩りに出掛けて、盗んだ防火用バケツに山盛りの赤貝を持って帰って来る。そして、これを刺身にして三人が束の間の家族団欒の食卓を囲む。私は、この「てこじい」の細やかな行為が、母親や「僕」を生の方に視線を向けるきっかけになったと思う。

 

 「てこじい」の死後、特に十代の半ば頃の「僕」が法事で北海道に行った折に、大叔父たちに彼のことを積極的に質問する場面がある。気性も見た目もちっとも「てこじい」に似てない「僕」が、自分の中に多少なりとも意外性のある何かが眠っているとすれば、それは「てこじい」から譲り受けたものに違いないと思ったから、彼のことを知りたがったのである。私は、このことから「孫にとって身近に存在する祖父の意味」について、次のように考えた。

 

 年老いて死に一番近い祖父の存在を身近に見る孫は、祖父の生前の生き様がプラスな面だけでなく、仮にマイナスな面を持っていても、その「死」によって何某か「生」への意味付けを与える。それは、祖父が辿ってきた一人の男の人生の重みや深みのようなものが、為させるのである。できれば、孫と直に接する過程で情愛豊かな心の交流が図れていれば、その分だけ祖父が与えるであろう「生」への意味付けは大きな価値をもつものになるであろう。ここにこそ、「孫にとって身近に存在する祖父の意味」があるのではないだろうか。

 

   「私はそのような意味を孫Mが実感することができるような接し方を、生命のある限りしていこう。」と、そっと心の中で誓った。