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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「充実した人生」という言葉に惑わされてはいけない!~勢古浩爾著『60歳からの「しばられない」生き方』に学ぶ~

 昨日の5月9日(日)、私たち夫婦は近くのデパ地下で豪華な弁当5折を買って、車で約15分間の距離にある妻の実家を訪問した。「まん延防止特別措置」の適用期間中ではあるが、「母の日」のお祝いのために満92歳の義母や義姉夫婦と一緒に昼食を食べたようと考えたからである。そして、義母の希望を叶えるために、昼食前後には、私は義母と卓球のラリーをして楽しんだ。今日の最高回数は60回ほどであったが、つい2か月前には100回を超えることもあった。義母は今回の記録にやや不満そうであったが、疲労感には勝てなかったようで、それぞれ20分程度で切り上げた。私ができるだけ打ちやすい球を返すようにしているとは言え、92歳の高齢である。私としては体調が急変することを心配してほどほどにしたいのだが、負けず嫌いな性格の義母はなかなか止めようとしない。でも、そんな義母の卓球のラリー相手となることで、義理の関係とは言え私としては親孝行の真似事をしているつもりになっている。だから、こんな日は「充実感」を味わうことができる。

 

 一昨日は一昨日で、長女と孫Hが午前中から私たちの自宅に来て、夕方頃まで過ごした。もうすぐ4歳3か月を迎えるHと一緒に私は風船突き遊びをしたり、様々なごっこ遊びをしたりして楽しんだ。運動能力が高まり、ますます活発になってきたHは、前回した時よりも玩具用のラケットで風船を連続でつく動きが上手になってきたので、私と競うように夢中になって遊んだ。また、ゴジラになったHは本物そっくりな鳴き声を発しながら、キングキドラの私に果敢と立ち向かう。その際、Hは以前に比べて力強く押すことができるようになった。私もHに負けないように、互角の戦い方をして楽しむ。その他、プラレールで新幹線を走らせたり、トミカの道路セットで車を走らせたりする遊びも一緒にする。Hの世界に入り込んで対話しながら遊んでいると、私自身が幼児に戻ったような感覚になることがあり、それはそれで別の「充実感」を味わうことができる。

 

 このように中味は異なるが、私の老後はそれなりの「充実感」を味わう日がたまにある。しかし、仕事をしなくなってからの日々は、興味をもった本を読んだり、ブログの記事を書いたり、テレビのミステリー・ドラマやスポーツ番組を観たりして過ごすことが多い。また、隔日の夕食後には、夫婦揃って約50分間のウォーキングをする。これらの活動は言うなれば、自分の趣味であったり、したいからしていることであったりする。だから、他者のために何かをするという「充実感」を味わっているとは言い難く、何となく物足りない感じがする。こんな老後でいいのだろうか?

 

 そこで、私は巷に溢れている様々な「定年本」や「老後本」から学ぼうとして多くの本に目を通してみた。すると、たいていは定年後も何らかの仕事を続けたりボランティア活動を始めたりして豊かな老後を過ごし、「充実した人生」を送るべしというような内容が書かれている。私も最初は「その通り!」と手を打って同意し、そのような「ロマン主義的な生き方」をしようと考え実践していた。しかし、「疎外」と「パワハラ」のために前の職場を半年で退職して、それが実現できていない情況になった。それで、少し焦っていた。ところが、このような私の「老後の生き方パラダイム」を転換し、新たな方向性を示唆するような本に出合った。一冊目は4月9日付けの記事で紹介した『仕事なんか生きがいにするな-生きる意味を再び問う』(泉谷閑示著)。そして、二冊目が今回紹介する『60歳からの「しばられない」生き方』(勢古浩爾著)である。勢古氏は「定年本」を何冊か刊行しており、私は今までに『定年後のリアル』『定年後7年目のリアル』『定年バカ』を読んでおり、本書はそれらの著書の主張とほぼ同様であるが、これらの中では最も新しいものなので今回取り上げてみようと思った次第である。

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 「定年後人生」の異端者と呼ばれる著者の主な主張内容は、いたって簡単で「定年後は、様々な社会のしばりから解放されて、自分のしたいことをし、したくないことはしないという自由で気ままな生き方をすればよい。」である。「様々な社会のしばり」とは、「常識」であり「世間」であり「言葉」であり「メディア」などのしばりのこと。本書の第4章「言葉にしばられない」の中の“「豊かな老後」や「充実した人生」”という言葉に惑わされない”という節は、私にとって「目から鱗」の内容であったので、次になるべく簡単に要約してみたい。

 

 人生に「こうすればこうなる」なんてことはない。だから、こうすれば老後は豊かになる、人生は充実する、輝く、なんてことはない。人生にあるのは「こうするつもり」とか「やってみせる」という意志だけである。すべての甘言は疑似餌である。ただし、「私は老後のいまが人生で一番楽しいよ」とか「毎日が楽しい、充実しているよ」という人がいると思うが、それはその人の勝手だし、言ったもん勝ちである。何だって言える。だが、それは私やあなたには何の関係もない。もし「豊かな生活」や「充実した人生」を送りたければ、自分でつくるしかない。一人一人「豊かさ」や「充実」の中味が違うからである。あなたの人生を知っているのは、あなた以外にいないのである。それにしても「豊かな生活」や「充実した人生」という言葉は、中味のない、ただ聞こえのいいだけの空語ではないのか。そんなものはどうでもいい、と思った方がいっそすっきりするのではないか。

 

 私は、著者の言う「すべての甘言は疑似餌である」という言葉が特に胸に刺さった。「定年本」や「老後本」を書いている人が「作家だ、学者だ、コンサルタントだ」と言って、人生の達人であるわけがなく、彼らも自分の人生を生きるのに精一杯なのである。私たちはそのような人が語る偽りの希望の言葉に食いつく義理はないのである。「自分のことは自分で決める。今まで無意識に身に付けてきた様々な社会のしばりから解放されて、自分のしたいことをし、したくないことはしないという自由で気ままな生き方をする。」これが、定年後の生き方として無理がないのではないか。私は本書を読んで、重い肩の荷を下ろしたような身軽い感じになり、とてもすっきりとした気分を味わうことができたのである。