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悪人こそ、阿弥陀仏の救いの本当の対象?~ひろさちや著『生き甲斐なんて必要ない―ひろさちやの仏教的幸福論―』から学ぶ~

 前回、柳美里氏が著した『JR上野駅公園口』を取り上げて記事を綴った際に触れなかったが、私の心の中で気になっていることがあった。それは、主人公の男性(カズさん)の息子の浩一が亡くなった時に浄土真宗に基づいて行われた葬儀やその教義等について克明に記されていた内容に関することである。特に、勝縁寺の住職が語っていた浄土真宗の教えに、私は少なからず興味を抱いた。例えば、次のような語りの部分。

浄土真宗の教えでは、亡くなるということは、往生と言って、仏様に生まれ変わるということなので、悲嘆に暮れることはありませんよ。阿弥陀仏様というのは全ての命を済うと誓ってくださった仏様です。南無阿弥陀仏というお念仏を称えてくれさえすれば、それだけでお前を済うと言ってくださっています。…(略)…」

 

 私は多くの日本人がそうであるように「自分は無宗教だ。」と思っているが、強いて身近な宗教は何かと問われれば、やはり「仏教」と答える。もちろんその理由は、お彼岸には仏壇に祀っているご先祖様に手を合わせたり、お寺での法事に参列したりすることがあり、日常的に慣れ親しんでいる宗教だからである。ただし、自分が檀家になっている寺の宗派さえ意識が乏しい人間である。そんな信心深くない私だが、「仏教」そのものには多少の興味をもっており、私の書斎の書棚にも「仏教」関係の本が数冊並んでいる。そこで今回は、前回の記事を綴った際に気になっていた浄土真宗の教えについて触てれている『生き甲斐なんて必要ない―ひろさちやの仏教的幸福論―』(ひろさちや著)を通読して、以前から私が疑問に思っていたことで特に心に強く残った内容について綴ってみようと思う。

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 私が以前から疑問に思っていたこととは、浄土真宗の開祖親鸞聖人の言葉「善人なほもつて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の意味内容である。普通に現代語訳すれば、「善人が極楽浄土に往生できるのであれば、ましてや悪人がお浄土に往生できるのは当然である。」となる。私にはこれがよく分からなかった。いわゆる世間的な常識で考えれば、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」ではないか。つまり、善人は極楽浄土に往生できるのは言うまでもなく、普通では極楽往生できない悪人にまで阿弥陀仏の慈悲は及ぶのだから、ありがたいということになる。ところが、親鸞聖人は、それとは真逆のことを語っているのである。つまり、悪人こそ、阿弥陀仏の救いの本当の対象である。もちろん、善人も救われるであろうが、それはまず悪人を救ったあとの話である。だから、善人が救われるのであれば、当然にその前に悪人の方が救われている。これが親鸞聖人の考え方。私はこの真意がよく分からなかったのである。

 

 今回、本書を読んでいると「Ⅳ 逆境を喜びなさい」の中で著者がこの真意を解説していたので、その解説内容について私自身の理解を確かなものにするために、なるべく簡潔に要約してみたい。

 

 仏教においては、「善人」というのは自分が迷惑な存在であることをこれっぽっちも意識していない人間、つまり自分の悪に気付いていない偽善者のことである。他方、自分の悪に気付いた人間、つまり自分が他人に迷惑を掛けている存在と気付いた人間が「悪人」である。だから、この世の中のほとんどの人間は「偽善者」であり、いわゆる善人なんてまずいない。自分が善人だと思っている人は、自分の悪に気付いていないだけである。みんな他人に迷惑を掛けて生きているのだから、その意味ではいわゆる悪人である。だとすれば、この世の中にいるのは「偽善者」と「悪人」と「偽悪者」(自分が悪人であることに気付いていながら、悪人であってなぜ悪いと開き直る人のこと)の三種の人がいることになる。親鸞聖人が「善人なほもつて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言われたのは、自分の悪に気付いた「悪人」のことである。仏様はそのような「悪人」を、まず真っ先に救われようとされたのである。私たちは、自分が悪人だと気付いたとき、そこに救いがあるのではないだろうか。…

 

 著者は、このような仏教の「悪人の救い」の事例として、夫を亡くし女手一つで中学生の息子を育てている女性の話を紹介している。この母親がある日、夜遅くまで残業しなければならなくなり、今のようにコンビニがない時代だったので子どものお弁当のおかずを買うことができず、やむなくかつおぶしを削っておかずにした。その翌日も、そしてその翌々日も同じ。三日続けてかつおぶしのおかず。その三日目の朝、中学生の息子が尋ねた。「お母さん、今日のお弁当のおかずは何…。」「ごめんね、昨日もお店が閉まっていたのでおかずを買うことができなかった。今日もかつおぶしよ。」「そうか、今日もかつおぶしか!?ぼく、そんな弁当はいらん!」彼はそう言って、ちゃぶ台に置いていた弁当を畳の上に投げつけ、家を飛び出て学校に行った。畳の上に散乱した弁当箱と飯を片付けながら、彼女は泣けてくる。女手一つで子どもを育てる。それがどれだけ苦労なことか。それをあの子は分かってくれない…。涙がぼろぼろとこぼれてくる。

 

 それで、母親は菩提寺に行って和尚さんにその悲しみを告げ、愚痴を言った。ところが、それを聞いた和尚は「中学生の子どもが昼になって弁当を開く。かつおぶしのおかず。子どもはとっさに恥ずかしいと思うだろう。横から覗かれている目を気にしながら、恥ずかしく思いながら弁当を食べた。そして、その翌日も、弁当を開いたらかつおぶしのおかず。子どもは、その弁当箱を抱え込むようにしながら、横から覗かれないようにあわてて弁当を食べる。そして、弁当箱に蓋をして、ほっと安心をする。他人のわしにさえ、その光景が見える。それなのに、実の母親のあんたは、子どもの悲しみに気付いていない。そして、自分のことばかり言っている。あんたはそれでも実の母親と言えるのか!?」と、彼女を叱ったのである。和尚のその言葉で彼女は目覚めて、「ごめんね。お母さんはあんたがどれだけ恥ずかしい思いをしていたか、ちっとも分からなかった。お母さんは忙しいんだから…と、自分のことばかり考えていた。悪い母親だった。許してね…。」と子どもに詫びた。すると、息子は「なあに、お母さん、ぼくももう中学生だよ。中学生にもなれば、お母さんの苦労ぐらい、よく分かるよ。気にしないでいいんだよ。ぼくの方こそ、弁当箱を投げたりして、ごめんよ。」と答えたという、ちょっといい話。

 

 私たちは、自分が「悪人」であると気付いたとき、そこに救いがある。しかし、「偽善者」には救いはない。偽善者は自分の悪に気付いていないから、他人を非難し、他人を攻撃する。そこには救いはないのである。先の事例だったら、母親が自分は子どものために一生懸命やっているのだから、子どもは私に感謝して当然-と、自分の立場を正当化している限り、彼女には真の救いはないのである。このような場合、世間のほとんどの人は偽善者らしい問題解決の方法をとる。「親の恩は山より高く、海より深い」といった調子のお説教をし、子どもに少しはお母さんの苦労を分かってあげなさいと忠告し、子どもが「すみませんでした。」と頭を下げて、それで終わり。でも、あの和尚はそんな世間一般の問題解決の方法ではなく、仏教の「悪人の救い」を教えたのである。さすがである。

 

    個人主義的な考え方が尊重される今の時代、ついつい自分本位に物事を解釈してしまい、無意識のうちに自分の言動が他人に迷惑を掛けてしまっているということに気付くこと、つまり自分が悪人であると気付くことは難しいかもしれない。でも、自分の悪に気付いたとき、それだけで私たちは救われているということを忘れないようにしたい。今回、以前から疑問に思っていた「善人なほもつて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の意味内容についての解釈を知ることをきっかけにして、「悪人の救い」という仏教的な教えについて理解することができ、普段から自分の偽善性に薄々気付いていた私にとっては有意義な学びになった。常に学び続けることは、いくつになってもよりよい自分を形成することにつながる。カメのようなゆっくりした歩みながらも、これからも精進を怠らないようにしたいものである。