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「穢れ」という概念とそれを「祓う」ことの意味について考える~イースト・プレス発刊『あらすじとイラストでわかる 神道』を参考にして~

 「神道」の基本的な事項についてもう少し学んでみたいと思い、馴染みの古書店で初心者向きの本を探していて見つけたのが、次のような章立てで構成されている『あらすじとイラストでわかる 神道』(イースト・プレス発刊)であった。

○ 第一章「神道の歴史と思想」 ○ 第二章「神社にまつわるナゾ」 ○ 第三章「神道にまつわる日本神話」 ○ 第四章「神道にまつわる人物ファイル」 ○ 第五章「現代に息づく神々の信仰」 ○ 第六章「暮らしの中に生きる神道」 ○ 第七章「全国祭りのファイル」

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 一項目の解説が見開き2ページ編集になっており、本文のポイントとなるイラストや写真も添えているので、とくかく「神道」初心者にも分かりやすい。私はここ数日間、暇を見つけては気になった項目をつまみ読みしてみた。特に興味を引いたのは、やはり第一章の「神社と歴史と思想」の各項目であった。その中でも「斎戒って何?」「禁忌って何?」「穢れはどうやって祓うの?」など項目は、「神道」で重視される「清浄であること」に係わる基本的な事項なので注目して読んでみた。

 

 そこで今回は、この「清浄であること」に係わる「穢れ」という概念とそれを「祓う」ということの意味について私なりに理解したことをまとめるとともに、それに対する所感を付け加えてみようと思う。

 

 「神道」では神と向き合う上で、「穢れ(汚れ)」こそが最大の禁忌として忌み嫌われたと言う。だから、祭祀に関わる神職には、祭祀の前日か当日に心身を清潔な状態に保つという意味の「斎戒」を行うことが求められた。例えば、きれいな水で沐浴して心身共に清めたり、清潔な白い衣装に着替えたり、居室を他人と別にして酒や肉食等を慎んだりすることなどである。701年の大宝神祇令で定められた「斎戒」では、① 喪を弔ってはいけない。② 病人の見舞いをしてはいけない。③ 獣の肉を食べてはいけない。④ 裁判をして罪人の罪を決めてはいけない。⑤ 音楽を楽しんではいけない。⑥ 穢悪にあずかってはならない(汚れているものや罪に触れてはいけない)。という六つの行為が禁じられていた。これらは、斎戒生活中で特に禁じられた「六色の禁忌」と呼ばれたらしい。すなわち「神道」が禁忌としている「穢れ」とは、死や病気、血といった不浄のものに触れることである。では、なぜ「音楽を楽しむ」がその中に入っているのか。それは、これから祭祀に関わる人間にとって精神を乱すものだからそうである。また、罪を犯すこと、例えば田を壊したり、人を傷つけたりすることでもたらされた「穢れ」は、天災や疫病が起こるきっかけと考えられたからだとか…。

 

 「穢れ」という概念は、本来、民俗学からすると「ケ」が「カレル(枯れる)」ことを意味していた。「ケ」とは、非日常的な状態として特別視される「ハレ(晴)」という観念に対し、日常的な状態を意味する「ケ(褻)」の意味であるとともに、生命の成長・持続を支える「ケ(気)」という意味も有するものである。それが枯れるのだから、生命の成長・持続を支える霊力が衰えた状態を意味するのである。この「ケ」が「カレル」状態は、同時にそれが持続されること、いわゆる「不浄」・「汚穢」という状態を派生させていくことになるので、その後の歴史的過程で「汚らわしいもの」「汚らわしい状態」そのものも意味するようになったと思われる。私が現職中に「人権・同和教育」の研修で学んだことを基にまとめると、中世社会になり仏教思想や陰陽道が浸透することによって、特定の人々を「穢れを有する人々」として扱うようになり、それらの人々を排除・差別しようとする意識が平安貴族から生じてきたと言われている。つまり、「神道」における「穢れ」という概念は、少なからず我が国の部落差別問題との関連が見られるものなのである。私が「神道」という宗教について今まで積極的に学ぼうとしなかった理由の一つは、この点も挙げられるのである。

 

 さて、「神道」の話に戻ろう。「神道」において、もし「穢れ」によって生命力が衰えたら、それを拭い取らなければならない。そこで行われるのが、「禊(みそぎ)」や「祓(はらえ)」である。「禊」とは、身体に付いた「穢れ」を落とすこと。最近は「浄土真宗」の「誰でも浄土へ行くことができる」という教義を尊重して廃止している事例もあるが、過去には葬式から帰宅した場合に、玄関に上がる前に身体に塩を振りかける風習があったが、これも「禊」の一つ。これは、黄泉国から戻ってきたイザナギが服を脱いで海水で身体を洗った神話に由来しているらしい。また、今でも神社へ参拝する前に手水舎で手や口を洗ったり、力士が土俵に入る前に塩をまいたりする風習が残っているが、これらも「禊」と言える。

 

 そして、「祓」とは、「穢れ」の付いたものを神に差し出すこと。日本各地では川へ流す雛流しという風習があるが、これは身の「穢れ」を人形に移して神に差し出すという意味がある。これは、高天原で乱暴を働いたスサノオが神々に全財産を没収されて、その地を追い出された神話に由来しているらしい。現在では、「禊」も「祓」も「穢れ」を取り除く行為として同一視されているので、両者をくっつけて「禊祓い」とも呼ぶらしい。「禊祓い」は塩や水を使うものばかりでなく、火祭りのように火を使って人形を焼いたり、神主が和紙を取り付けた木の棒の祓え具を左右に振ったりすることでも、「穢れ」を「祓う」ことができるとされている。小正月に門松や注連飾りなどを焼く「どんど祭り」や、「お宮参り」や「七五三」の行事の「お祓い」もその実例である。

 

 このように見てくると、「神道」における「穢れ」という概念とそれを「祓う」ということの意味は、現在の生活に根付いた伝統的行事の中で脈々と息づいており、その点では尊重されるべきものであろう。ただし、「穢れ」という概念が歴史的に孕んできた「排除」や「差別」という観念については、現代の「人権」という観念と擦り合わせて批判的に検討を重ねていくことが重要であることを確認して、今回はここら辺で筆を擱きたいと思う。…どのような事物・事象も多面的・多角的にとらえ、深く思考した上で、適切に判断していくことが大切なのだと、今回もつくづく思った次第である。