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「障害」という概念について考える~佐藤幹夫著『ハンディキャップ論』を再読して~

 前期高齢者の私としてはフルタイムで働き始めるとやはり体力的にきつい面があり、帰宅してから読書をしたりブログの記事を書いたりする余裕があまりない。特にこの一週間はまず職場の雰囲気や業務内容に慣れることに専念していたので、自分では意識していないつもりだったが、心身共に疲れ切っていた。でも、前回の記事にも書いたように、今の職場は明るい雰囲気だし、ある程度自分のペースで業務に取り組むことができる環境なので、過度のストレスが掛かることなく働くことができている点、とても有難い。

 

    そのような中、先日、教育相談の申請があった学校現場へ初めて出掛け、久し振りに普段の授業実践を参観させてもらいながら、対象児の観察記録を取る業務に従事した。帰庁後、私たち「特別支援教育指導員」の執務室において、その観察記録を基に報告書を作成していると、「この仕事は私には適しているなあ。」と心の中で呟いてしまった。授業中における対象児のあるがままの様子をまとめていると、その子が見せる学習行為や何気ないしぐさなどから様々な内面の動きが見えてくる。まさしく現象学的なアプローチによる子供理解の方法が生かされる。今後は、私なりの解釈に基づいて対象児や授業者の困り感を解消していく手掛かりを見出し、授業者や保護者等との教育相談の際にアドバイスをしていくことになる。私の今までのキャリアを最大限生かすことができそうなので、つい気持ちが高ぶってくる。

 

 そこで、勤務し始めて二回目の週休日を迎えた今日、その気持ちの高ぶりを少しクールダウンして平常心を保持するために、改めて「障害」という概念について考えたいと思い、以前読んで大きな刺激を受けた『ハンディキャップ論』(佐藤幹夫著)を再読することにした。今回は、その読後所感をまとめておきたい。

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 著者は、自身が「赤緑色弱」という色覚異常者であることから、その社会的バリア=「障害」について考察している。その中で、かつて小学校で使用していた石原式検査法がいかに根拠のないものであり、その恣意的な基準によって色覚異常者と判定されていた人がいかに職業選択に当たって多くの制約を受けてきたかについて憤りを持って述べている。著者が学生の時、色覚異常者には理科系全ての学部の受験資格がなかったのである。幸い著者は文学部志望だったから、特に大きな騒ぎにならず、「赤緑色弱」が進路選択を阻む社会的バリア=「障害」とはならなかった。

 

 しかし、著者が参考文献として挙げている『つくられた障害色盲』(高柳泰世著)によると、遺伝性ゆえ結婚をあきらめるよう告げられた女性の例、泣いて我が子に詫びた父親の例、いかにそれまでの自分の人生が希望する選択を阻まれてきたかと嘆く例等が紹介されているという。「差別と闘う会」まであったという深刻な事態がかつてはあったのである。現在は、多くの大学の受験資格からも、教員受験資格からも、この「色覚異常でないこと」という項目は削除されている。また、2003年からは学校保健法の一部を改正し、小学校における検査自体を取り止めている。

 

 このような事例から、著者は「心身の諸器官を負うこと」と、「障害者であると社会の側から刻印付けられること」とは、実はイコールではないと指摘する。そして、「障害者」とは、単に機能的、能力的にハンディを持つだけの存在なのではなく、その存在一般が社会的な「障壁」のもと、絶対的な不利益を被ってしまう存在なのだと強調する。この社会的障壁は、ある場合には何ら明確な根拠に基づくものではないということ、また時代の進展にとともに軽減され得るものであることであり、なぜか私たちが持たされてしまっている共同の観念なのであるとも主張している。

 

 さらに、最終章において著者は本書を書き継いできた理由を、次のように述べている。…わたしにとって「障害」とは、人間の持つ多様性のひとつにすぎない。そしてそのように言うとき、そこにはどんな「価値」感情も含まれていない。人間に訪れる事実としての多様性である。社会が要らぬ「障壁」をつくったり、十分な情報や「慣れ」がないために関係の強張りとなったり偏見となる、「障害」とはそのようなものなのではないかという、ただそのことだけをお伝えしたかった次第である。…本書は、このような意図で書かれたものなのである。私は、著者の「障害」という概念のとらえ方に強く共感する。

 

 今から20年前ぐらいから「特別支援教育」という新しい概念が登場して、それまでの「特殊教育」という概念を転換する動きが起きた。本書の発刊時期が2003年であるから、もしかしたら著者はこの転換の根拠になるような「障害観」に基づいて発言していたパイオニア的な存在だったのではないだろうか。この度、「特別支援教育指導員」として仕事をするようになり、私は改めて「特別支援教育」の根底にある「障害観」について問い直しつつ、著者のような「障害観」を確かに涵養する必要性があると思った。

 

 さて今日はこれから、新型コロナの2回目のワクチン接種をすることになっている。無事に済ませて、明日からは私の訪問を待っている教育現場へ多少の安心感を持って出掛け、困り感を抱いている子供や保護者、そして担任の先生方が少しでもそれを解消することができるように頑張ろう。平常心を保持しながら…。