前回の記事は、『「こころ」の本質とは何か―統合失調症・自閉症・不登校のふしぎ―』(滝川一廣著)を再読して、「自閉症」の本質について私なりに理解したことをまとめてみたが、その際に「自閉症」のこころの世界について十分に触れることができなかった。「発達障害」のある子について理解を深めるためには、その子のこころの世界について知ることが不可欠になる。特別支援教育指導員の職務を考えると、私にとってこのことの重要性は大きい。だから、まず本書の著者である滝川氏が描く「自閉症」のこころの世界のとらえ方について簡潔にまとめてみる。
本書において著者は、「自閉症」のこころの世界の特性として「依存性の乏しさ」「不安緊張の高さ」「感覚・知覚の過敏さ」「情動の混乱しやすさ」「強いこだわり」の5つを挙げて、それらの特性には合理的な理由と必然性があることを筋道立てて解説している。そして、これらの特性は互いに循環的に絡み合って、「自閉症」独特のこころの世界を形づくり、一見極めて特異な行動の在り方を見せるが、それは「共同性・関係性」を前提としている私たちのこころの本質上、特殊で異常なこころの世界ではないのだと主張している。私にとってこの主張内容はとても分かりやすく、十分に納得できるものであった。
本書を再読している時に、私は以前にも「自閉症」のこころの世界について説得的に解説した本の記憶が蘇って来た。それは、『自閉症―これまでの見解に異議あり!―』(村瀬学著)という本である。今から約15年前、師走も押し詰まった時期に近くのデパートで催された「山下清とその仲間たちの作品展」を妻と共に鑑賞したことをきっかけにして、本書を入手し一気に読了したことを思い出したのである。私は、本書をここ1週間ほどかけて再読してみた。初読時、私は一体何を学んだのだろうと反省するほど、「自閉症」に関する根源的・本質的な認識が深まったことを自覚した。
そこで今回は、本書の中で著者の村瀬氏が披露している「自閉症」のこころの世界についての見解を私なりにまとめ、いつものように簡単な所感を加えてみようと思う。
著者はまず、ローナ・ウィング著『自閉症児』や「報道特集・うちの子は自閉症」というテレビ番組の内容を紹介し、それぞれの「家族の苦労」から「自閉症」のことだけではなく、私たちの生きる仕組みのことをもっと受け止める必要があると述べている。また、これらの事例から、「自閉症」と呼ばれてきた子供たちは「並んでいるもの」が変化することに不安を感じていることを読み取っている。
次に、「物を一列に並べる」「部屋の中の並んでいる物を動かすと怒る」「道順にこだわる」「同じ行動をいつまでも続ける」というような行動を示す、「同一性保持」や「変化への抵抗」と呼ばれている「自閉症」の症状について考察している。また、「自閉症」以前の問題として、人類が作り出した三大叡智と言われる「数・暦(カレンダー)・地図の発見」について取り上げて、「順序」や「配列」が損なわれると人は誰でもある程度のパニック状態になることを具体的に論じている。
特に私の心に印象深く残った内容の一つは、自閉症児が「カレンダー」に関心を寄せるこころの世界を解釈している箇所である。次に、その概要をまとめてみる。…彼らが「カレンダー」に関心を示すのは、社会の規則性をうまく把握できないところからくる「不安定さ」があったからである。その「不安定さ」から自分を守るために、比較的分かりやすくできている「規則性」、例えば家の中の配置や、散歩する道の順番とか、そういう「空間の規則性」に注意を払うことで、手作りの安心感を得ようとしていた。さらに、そこから「時間の規則性」、つまり「カレンダー」に関心を寄せて安心感を得るという方向性を取るように、自然に関心が動いていたのである。
もう一つ、私が強いインパクトを受けた内容がある。それは、多くの自閉症児が「家出」や「放浪」、「一人旅」を繰り返すことに対する解釈である。著者は、彼らのこころの世界を解釈するには「地図」が手掛かりになると考え、その意味論的な考察をしている。次に、その概要をまとめてみる。…「地図」とは「目印」の「順番」の意識であり、その「目印」をさらに「配置(座標)」として組み合わせたものである。だから、「地図」には必ずそれらの一定の「規則性」がある。自閉症児の「地図」にはあまり一般性がなくても、その描き手の頭の中に一連の「つながり」としてある限り、他人が見ても「地図」として見えるものになっていく。「先」の読めない状況下で生きている彼らは不安が高く、とにかく少しでも「先」の読めるものを探そうということになり、周囲の順番にならんでいるものや配置に関心を向けることになるのである。その一つが「地図」なのである。
「順番」や「配列」が損なわれる傾向をもつ自閉症児は常に「おそれ」があり、この「不安定さ」から自分を守るために、「時間の規則性」をもつ「カレンダー」や「空間の規則性」をもつ「地図」に注意を向けていたのである。一般の子供たちは最も身近にいる「親」の笑い方やしゃべり方・動き方にその親なりの一定の「規則性」に強い関心を示していくが、自閉症児は絶えず動き回る「親」に一定の「規則性」を見出すことは難しい。だから、彼らが「親に関心を示さない」と言われてきたのは、関心を示さないのではなく、動き回る人間に一定の「規則性」を見つけることが上手にできにくいからであると、著者は指摘する。彼らはよく「対人関係がとれない」と言われるが、それは「関係がとれない」のではないし、「対人関係に無関心」なのでもなく、「人間の行動の規則性」が読み取れにくい故の不安が先立っているだけなのである。
著者はこのような考察を基に、自閉症児と私たちは決して断絶しているのではなく、むしろ同じ地平に立っていると主張する。これまでの自閉症=特殊論に異議を唱え、彼らの生の在り方は誰にでも共感でき、理解できるものであることを強く訴えている。つまり、従来「自閉症の謎」などとして不思議がられてきたものは、その原因を訳の分からない「脳障害」や「知覚・言語・認知障害」などに求めて特別視しなくても、身近な自分たちの「記憶」の現象を突き詰めるだけでも、私たち自身のもつ「謎」と共通しているものであることが理解してもらえるはずなのである。
以上のような「自閉症」のこころの世界についての著者の見解を今回再認識して、私は自分自身の今までの「自閉症」に対する認識の浅さを痛感した。「自閉症」を「病気」ととらえ、自閉症児が示す特徴的な行動を「症状」と見なしてしまう発想から脱し、彼らを一人の人間としてあるがままとらえ、彼らの示す特徴的な行動を誰にでも大なり小なりもっている「特性」だととらえることが大切なのである。そのことにより、自閉症児を「生活=社会」の中の「関係」としての存在としてとらえる視座が確保され、新たな「相互関係性」の地平が拓かれていくのである。私は本書を再読しながら、特別支援教育指導員という今の立場を鑑みて、さらなる「研修と変容」が必要であると痛感した。