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「道徳」ではなく「倫理」を中核にした道徳授業について~山口尚著『日本哲学の最前線』から学ぶ~

 職場で新型コロナウイルスの感染拡大防止のために時差出勤が実施されていた時期に、定時より1時間早く出勤する日があった。当然、その日は退庁時刻も早くなるので、私は久し振りに帰宅途中にある大型書店に立ち寄ることにした。2階の文庫や新書等を揃えているコーナーをうろうろと回っている時に、ふとある本に目が留まった。2か月ほど前、地元新聞紙に書評が載っていた『日本哲学の最前線』(山口尚著)という新書である。2010年代に哲学界のポピュラーな領域で頭角を現してきた國分功一郎・青山拓央・千葉雅也・伊藤亜紗・古田徹也・苫野一徳という若き哲学者たちを取り上げており、私は今までにその中の数人の著書を読んで共感することがあったので、著者の山口氏がどのような視座でこれらの哲学者の思想を意味付けているのか興味があったのである。

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 本書を入手してからすでに2週間以上過ぎてしまった。週5日のフルタイム勤務だと体力面・気力面に余裕がもてなくて、私はなかなか読み通すことができなかったのであるが、やっとこのシルバー・ウィークに入って読み終えた。著者は、日本哲学の最前線である「J哲学」(土着と輸入の二分法的な対立を離れ、普遍的な哲学に取り組むこと)の6名の思想を、<自由のための不自由論>という基本視座の文脈で取り上げて意味付けており、一般市民にも分かりやすい表現に心掛けて紹介してくれている。

 

 その中でも特に「第四章 身体のローカル・ルールとコミュニケーションの生成-伊藤亜紗『手の倫理』」の内容は、今、特別支援教育という分野で仕事をしており、今までに体育・スポーツ教育という分野にも関わってきた私にとって多くの知的刺激を受けたものであった。というのは、伊藤が『記憶する体』において、全盲や「中途障害」等の人々がその障害のある身体と向き合う中で、自分の思い通りにならない身体とどうにか付き合っていく個人的なルールについて論じている箇所は、私にとって新たな視座を得るものだったのである。また、著者は伊藤の哲学をできる限り個々の人間を抽象化せず、個別を個別として語った上で、多くの人にとって役立つ何かが結晶化させることを目指す「個別性の哲学」であると呼び、それが進んでいく領域を「他者性の倫理」という独自の<不自由論>として意味付けている点も納得できるものであった。

 

 近著の『手の倫理』の題名にも使用されているが、伊藤の使う「倫理」という語は<決まりきった「正しさ」のない領域において「よい生」を模索すること>を意味していると言う。これは、<小学校の道徳の授業で習うような「〇〇しなさい」という絶対的で普遍的な規則>の領域と特徴づけられた「道徳」と対比される。伊藤は、このような「道徳」ではなく、全体を見通せない限られた視界の中で、迷いつつ自分の考えるベストなものを選ぶという現実的な状況である「倫理」に関心があるのである。この点、私も伊藤と同様なのである。だから、私も個別的な顔をもった個人が自分固有の生き方を作り上げるという、人生の具体相を尊重したいのである。

 

 私は現職時に、徳目を教え込むような「道徳」の授業の在り方について常に疑問をもっていた。だから、日常よく出会う道徳的な価値葛藤の場面を想定して、その状況で子どもたちがどのような行為を選択しようとするのか、その行為を選択するのはどのような理由なのかについて議論するような授業を実践することがあった。そのきっかけになった道徳授業で今でも思い出すのは、地元の国立大学教育学部附属小学校で初めて3年生を受け持った時のある授業場面である。

 

 それは、「親切」という道徳的価値を主題にした授業である。その授業では、バスの座席に座っていた主人公が、重そうな荷物を持つおばあさんがそのバスに乗り込んできた時に、席を譲るかどうかを迷うという内容の資料を活用した。その資料ではバスの中は混雑していて、そのおばあさんが座る席はない状況であることが描写されているだけだった。そこで、私は、子どもたちの実態を踏まえ、主人公は通っているスイミングスクールの帰りだという条件を口頭でその資料に付け加えた。すると、子どもたちから「スイミングでは何m泳いだのか?」「その後、後何駅目で降りるのか?」などの質問が次々と出た。私は「どうしてそんなことが気になるの?」と聞き返すと、「だって、1,000mも泳いだ後なら、席を譲ってあげたくても自分の方が疲れているのでできないけど、それほど泳いでいないのなら、まだ元気なので席を譲ってあげられるから。」とか「自分がすぐに降りるのなら、降りる際に何気なく席を譲れるけど、まだ先の方なら席を譲るのに悩んでしまうから。」とかの反応が返ってきた。

 

 その時、私は3年生の子どもたちにとって困っている人に「親切」にするという「道徳」は身に付いているのだと思った。子どもたちにとって大切なのは、その場の状況に応じてどのような行為を選択することがベストなのかと考えることなのだ。つまり、伊藤の言う「道徳」ではなく、「倫理」の方が子どもたちにとっては切実な問題なのである。私は、そのような授業経験をした頃から、「道徳」の授業の在り方の一つとして、伊藤の言う「倫理」を中核にした授業構想を試みるようになった。そして、その授業実践を振り返ってみると、子どもたちにとっても私にとってもありきたりで退屈な「道徳」の時間ではなく、子どもたちがどのような道徳的行為を選択するかを活発に議論する「倫理」の時間になったように思う。

 

 今回の学習指導要領において設定された「特別の教科 道徳」の授業の在り方を示すキーワードとして、最近「考え、議論する道徳」という言葉を聞くことがある。私は、自分のこのような経験から、これからの道徳授業は伊藤の言う「道徳」ではなく、「倫理」を中核にしていくことが求められているのではないかと考えている。