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「障害」を媒介にして人々の関係を変えよう!~伊藤亜紗著『目の見えない人は世界をどう見ているか』から学ぶ~

 前回の記事をアップした後、私は当ブログで以前に「伊藤亜紗」という美学者に関わる内容の記事を綴ったことがあったことを思い出した。それは、「スポーツは見えない?」(2019年3月20日付け)というタイトルで、彼女がNTTと共同して「目の見えない人のスポーツ観戦」というテーマで取り組んでいることを紹介したものである。具体的には、視覚障害者が手ぬぐいを活用することで、対戦者たちの「動きの質感」を再現するように柔道を観戦しようとする取組を取り上げていた。その際は、とても面白い取組だなあという程度の感想しかもてなかったが、最近読んだ『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗著)は、今まで当たり前だと思っていた世界とは全く違った世界へ私を誘うほどの身体論を提示してくれるものになった。

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 そこで今回は、本書から学んだことを基に、「障害」を媒介にして人々の関係を変えることの意味や意義等について理解した内容の概要をまとめるとともに、それに対する私なりの簡単な所感を付け加えてみたいと思う。

 

 本書は、視覚障害者やその関係者6名に対して著者が行ったインタビュー、ともに行ったワークショップ、さらには日々の何気ないおしゃべりから、晴眼者である著者なりにとらえた「世界の別の顔」の姿をまとめたものである。いわゆる福祉関係の問題を扱ったものではなく、見える人と見えない人の違いを丁寧に確認しようとした身体論の本なのである。具体的には、「空間」「感覚」「運動」「言葉」「ユーモア」という5つのテーマを設定して、見えない人がどのように世界を見ているのかを解明することを通して、「障害」に対して新しい社会的価値を生み出すこと、つまり「障害」を媒介にして人々の関係を変えることを目指しているのである。

 

 本書の中で私を今までとは全く違った世界へ誘ってくれたのは、特に第4章「言葉」で紹介されている「ソーシャル・ビュー」という美術鑑賞の取組と、第5章「ユーモア」で取り上げている見えない人が「不自由」の意味を変える発想法であった。以下、それぞれの内容をまとめてみたい。

 

 まず、「ソーシャル・ビュー」という美術鑑賞の取組について。今まで見えない人の美術鑑賞と言えば、触覚を用いた鑑賞を思い浮かべる人が多いと思うが、この「ソーシャル・ビュー」はそれとは全く異なる方法を工夫した美術鑑賞である。簡単に言うと、見える人と見えない人が混ざり合ったグループの中で、積極的に声を出して仲間とのやりとりをしながら作品を鑑賞するという方法である。ただし、それが決して「見える人による解説」ではないということ。あくまで「みんなが見る」という「ソーシャル」としての経験がそこにはあり、作品という一つのトピックをめぐって、それまで面識がなかった人が集まって対話するのである。

 

 「ソーシャル・ビュー」において見える人の仕事は、「正解」を言うことではない。「見えているもの」、つまり目の前にある作品の大きさ、色、モチーフなどの「客観的な情報」と、「見えていないもの」、つまり個人の思ったこと、印象、思い出した経験などの「主観的な意味」を言葉にすることである。特に「ソーシャル・ビュー」の面白さはこの「見えないもの」、つまり「意味」の部分を共有することにあり、その新しさは結果的に見出すゴールに辿り着くまでのプロセスを共有する点にある。だから、「ソーシャル・ビュー」は、見えない人だけでなく、見える人にとっても「筋書きのないライブ感満載」の美術鑑賞なのである。

 

 「ソーシャル・ビュー」において、見える人が自分の見方を言葉にする理由は、とりもなおさずそこに見えない人がいるからである。不慣れな人にとっては、なかなか難しいことであり、場合によってはプレッシャーに感じる。しかし、その抵抗感を越えて言葉にしてみることで、自分の見方を明確にできるし、他人の見方で見る面白さも開けてくると言う。一人だけの無言の鑑賞とは異なる、より創造的な鑑賞体験の可能性が見出せるのである。つまりここでは、見えないという「障害」が、その場のコミュニケーションを変えたり、人と人の関係を深めたりする「触媒」になっているのである。見えることを基準に考えてしまうと、見えないことはネガティブな「壁」にしかならないが、見えないという特徴を皆で引き受ければ、それは人と人を結び付け、生産的な活動を促すポジティブな要素になり得るのである。

 

 「ソーシャル・ビュー」は、単なる意見交換ではなく、ああでもないこうでもないと行きつ戻りつする共同作業。だからこそ、お互いの違いが生きてくる美術鑑賞になり、「特別視」ではなく、「対等な関係」ですらなく、「揺れ動く関係」を生成していくのである。見えないという「障害」が「見るとは何か」を問い直し、その気付きが人々の関係を揺り動かすのである。福祉とは違う、「面白い」をベースとした「障害」との付き合い方のヒントが、ここにはあるように思うと著者が語っていることに、私は強く共感した。

 

 次に、見えない人が「不自由」の意味を変える発想法について。著者は、難波さんという全盲の方の事例を取り上げている。その事例というのは、難波さんはスパゲティ用のレトルトのソースをまとめ買いするが、そのソースにはいろいろな味があるのに全てのパックが同じ形状をしていることに起因した出来事である。一人暮らしの難波さんがパックの中身を知るには、基本的に開封してみるしかなく、ミートソースで食べたい気分の時に、クリームソースが当たってしまったりする。はたから考えれば、こうした状況は全くネガティブなものである。でも、難波さんはそうとは受け取らず、食べたい味が当たれば当たり、そうでなければハズレととらえ、「くじ引き」や「運試し」のような状況として楽しむのである。

 

 つまり難波さんは、見えないことに由来する自由度の減少=「不自由」を、ハプニングの増大としてポジティブに解釈している。言い換えれば、「情報」の欠如を、だからこそ生まれる「意味」によってひっくり返しているのである。これはまさに視覚障害者がもつ「ユーモア」という武器を使って、社会に無理矢理自分を合わせなければならないプレッシャーをかわしている事例である。そして、このような「障害」を笑うような「ユーモア」は、健常者の心の中にある「善意のバリア」に気付かせてくれる。つまり、障害者による「ユーモア」は健常者との緊張した関係をほぐし、お互いの文化的差異を尊重するコミュニケーションの端緒に私たちを立たせてくれるのである。私は、この事例を知ることによって、自分の中に無意識に存在している「善意のバリア」なるものを取り払うべく、これからでも意識改革していく必要性を痛切に感じた。

 

 最後に、著者は「そもそも障害とは何か」と問い直し、自分の障害観を披露している。その中で、障害学の言葉でいう「個人モデル」から「社会モデル」への転換に触れた箇所で、「個人レベル」でとらえられた障害の概念が背景にある「障がい者」や「障碍者」という表記を、旧来通りの「障害者」と表記してそのネガティブさを社会が自覚するほうが大切ではないかと主張している。さらに、障害を受け止めるアイデアや実践がまだまだ不足していることを指摘し、日本がこれから経験する前代未聞の超高齢化社会を生きるためのヒントを探すためにも、障害を受け止める方法を開発することが必要だとも提言している。現在、曲がりなりにも特別支援教育に関係する仕事をしている前期高齢者の私としては、著者のこのような主張や提言を真摯に受け止めたいと考えている。