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障害者に対する差別や偏見を助長する「世間」の変化とは…~佐藤直樹著『目くじら社会の人間関係』から学ぶ~

 先月22日(水)の地元の新聞紙に<児童に「生きる価値なし」 特別支援学級教諭を免職>という見出しの記事が掲載された。その記事によると、兵庫県姫原市立のある小学校教諭(39歳の男性)が、2018年~2021年6月の間に、かばんをしまわないなどした4年生男児に「生きる価値なし。死ぬしかない。早く転校しろ。」と発言したり、給食の準備に手間取った1年生男児に「おまえは必要ない。人間、必要ないと言われたらおしまいやな。」などと言ったり、この他、複数の児童を床に押し付けたり、プールの授業中に泣いている児童を無理やり水に押しつけたりしたという。そして、その事実を受けて、兵庫県教育委員会は同教諭を今年の9月21日付けで懲戒免職処分にしたというのである。何らかの障害をもつ子どもたちに対してあまりに理不尽な言動を繰り返しているのだから、本処分は当然のことだと思う。それにしても「なぜ?」と強い憤りを込めて問い質したくなる。

 

    続いて同月25日(土)には、<神奈川県立の入所施設 障害者ほぼ終日閉じ込め>という見出しの記事が掲載された。その記事によると、神奈川県立の知的障害者施設「中井やまゆり園」で、一部の入所者を1日20時間以上、外側から施錠した個室に閉じ込める対応が常態化していることが、共同通信の入手した園の内部資料で分かり、職員からは「実質的な虐待だ」との声が出ているという。県の有識者会議は今年3月にまとめた報告書で「園を指導する県自身が権利擁護に対する認識が低かった。」としていた。また、同園の職員は「障害者を人として扱わない県の体質が事件の背景にあったのに、変わっていない。」と話したという。2016年に「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件の教訓が全く生かされていない実態に、私は唖然とするとともに悲しい気持ちに覆われた。「どうして?」こんなことが繰り返されるだろうか。

 

    このような障害者に対する偏見や差別を生む原因や背景について、私なりに考えていた時に「目から鱗」のような指摘をしている本を見つけた。それが、『目くじら社会の人間関係』(佐藤直樹著)である。著者の佐藤氏の略歴については、当ブログの2019年9月16日付けの記事<「世間」との関係における「妬み」の構造について考える~『暴走する「世間」で生きのびるためのお作法』を参考に~>において詳しく記しておいたので重複は避けるが、彼は「日本世間学会」設立時の初代代表幹事で、刑事法学・現象学・世間学を専門とする元九州工業大学教授である。本書は、近年話題となった事件や社会的事象を解析することを通して、日本にしかない「世間」によって多くの日本国民がちょっとした出来事に対してすぐに「目くじら」を立てるようになった経緯や構造等について解説している。その中に「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件についての解析も含まれていて、私はその解説内容が肚にストンと落ちたのである。

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 そこで今回は、障害者に対する偏見や差別を助長する原因や背景について、本書から学んだことをなるべく簡潔にまとめ、私なりの所感を付け加えてみたい。

 

 著者は、現在のような障害者に対する偏見や差別を助長する原因や背景には、日本にしかない「世間」の変化があると指摘している。この「世間」の変化に関する著者の解説を要約すると、次のようになる。…日本においては明治時代になって西欧から「社会」という人的関係を輸入したが、現実的には定着することがなく、「贈与・互酬の関係」「身分制」「共通の時間意識」「呪術性」という四つのルールをもつ「世間」という千年以上も歴史がある人的関係が未だに存続している。また、これらのルールは法律とは明白に異なるが、それに匹敵するチカラを持って同調圧力として作動する現状がある。特に近代以降の「世間」は、江戸時代までの負荷性・抑圧性を帯びてない「やさしい世間」から、それらを強く帯びた「きびしい世間」へと再構成した。そして、1990年代末以降の後期近代に入ってから、この「きびしい世間」の様相がさらに新たな段階を迎えていると…

 

 では、このような「世間」の変化と、障害者に対する偏見や差別を助長する心理的・社会的事象との関連は、どのようになっているのであろうか。

 

    著者は言う。もともと「世間」には「共通の時間意識」というルールがあるために、「みんな同じ(同質)」であることを要求される。それ故、健常者と異なり障害者は、異質な者とみなされるのである。また「世間」にはウチ/ソト(ヨソ)の厳格な区別があり、障害者は異質な「ヨソ者」として「世間」のソトに排除されるとともに、「世間」のウチ側では障害者に対する偏見や差別が生まれるという構造がある。つまり、日本だけにしかない「世間」というものは、「排除の構造」を内包する人的関係なのである。

 

 その上に、1990年代末以降の、グローバル化に伴う新自由主義の浸透と拡大は、職場への成果主義の導入に代表されるように、人々が「強い個人」になることを要求するようになった。ここでは、働けない者や生産できない者は社会的に無価値だとする考えが広まっていく。その結果、障害者や高齢者など、社会の役に立たない「社会の敵」「国家の敵」に対する排除の空気が強まっていったのである。また、このような後期近代への突入に伴って、海外では人種的・民族的・宗教的対立と排除の形をとって生じている「再埋め込み」(この概念については、社会学アンソニー・ギデンズの「埋め込み」「脱埋め込み」「再埋め込み」という議論の中で取り上げられているが、その解説は長くなるのでここでは省略する。詳しく知りたい方は、ギデンズ著『近代とはいかなる時代か?モダニティの帰結』1993年、而立書房か本書を参照されたし。)が、日本では「世間」への「再埋め込み」として生じている。先にも述べたように「世間」は差別が的本質を持つので、これが一種のヘイト・クライムとして、心身障害者に対する偏見や差別の形をとったと考えられる。

 

 では、「世間」の中に生きている私たち日本人は、このような「きびしい世間」に対してどのような対抗策を講じればよいのだろうか。

 

 著者は、この問いに対して本書の「おわりに-「やさしい世間」の復権に向けて」の中で、<生き心地がよく、風通しのよい「やさしい世間」の復権>が喫緊の課題だと述べ、そのために一人一人ができることを箇条書きにまとめ、次のように示している。

① 「いろんな人がいてもよい」と考える。「みんな同じ」とは考えず、個人を生かすということである。(「共通の時間意識」)

② 「なんであいつだけが」と考えない。他人との身分差を妬まずに、「他人は他人。自分は自分。」と考えるということである。(「身分制」)

③ 「つき合い残業」をやめよう。職場で「共感過剰シンドローム」に陥って、過労死しないようにということである。(「共通の時間意識」)

④ 「お返し」はほどほどに。お中元・お歳暮、香典返し、返信メールなど、お互いに過剰な心理的負担にならないようにということである。(「贈与・互酬の関係」)

⑤ あまり「聖地」とか「前世」とか「パワースポット」にこだわらない。こだわらなくなるとも、不幸になったり、世の終わりが来たりはしないということである。(「呪術性」)

⑥ 「いえ」意識にとらわれない。「いえ」は差別の根源であるし、子どもに対する「親の責任」をあまり過剰に考えるなということである。(「共通の時間意識」)

 

 これらの内容を見て、私はこの3か月間ほど特別支援教育指導員の教育相談業務を行う中で、未だに「特別支援学級」や「特別支援学校」に対する負のイメージをもつ人が多い現実を知り、特別支援教育をよりよく推進していく上でも日本人にはぜひ求められる事項だと痛感した。私自身の今までの生き方についての反省も込めて…。