美学者の伊藤亜紗氏が著した『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んで以来、彼女の発言内容に関心を持つようになった私は、最近『「利他」とは何か』(伊藤亜紗編・中島岳志・若松英輔・國分功一郎・磯崎憲一郎著)を読んだ。その中で彼女が執筆している<第1章「うつわ」的利他-ケアの現場から>を読んでいる時に、自分の教職時代のある場面を思い出した。
それは次のような場面である。…私が市立のある中学校の校長をしていた時、始・終業式の式辞を述べたり全校朝会等の校長講話をしたりする前に、その話題についてしっかり下調べをして臨んでいた。そのような中、赴任2年目の2学期の終業式の式辞で取り上げた話題が、「“自利利他”の精神を生かした生活」であった。内容は、生徒たちが目前にした冬休みを有意義に過ごすための心構えとして、“自利利他”の精神を大切にしてほしいということだった。私は仏教の教えの一つである「自分を生かし、相手も生かす」という“自利利他”の精神を敷衍して、「他人のためになすことが、自分のためになる。自分のためになすことが、他人のためにもなる」という意味を強調した。具体例としては、「ボランティア活動」や「受験勉強」をどのようにとらえて取り組めばよいかについて語ったという場面である。
なぜ、この場面を思い出したかというと、私が語った“自利利他”の精神の意味は本当に妥当性があるものだったのかという疑問を抱いたからである。これについて、伊藤氏は本書の中で、私が語った“自利利他”の精神のことを自分にとっての利益を行為の動機にする「合理的利他主義」と位置付け、現在の“利他”をめぐる主要な考え方の一つになっていると説明している。したがって、私が語った“自利利他”の精神の意味は一般的な妥当性はあったと考えられる。しかし、“利他”についての考え方はこれだけなのであろうか。また、教育における“利他”をどうとらえればいいのだろうか。これらの疑問について答えるために、伊藤氏の説明の続きをもう少し追ってみたい。
彼女は、利益を動機とする点で「合理的利他主義」をさらに推し進めた「効果的利他主義」についても触れている。それによると、「効果的利他主義」とは共感よりも理性に基づいて幸福を数値化し、「一番たくさんの」幸福を効率的に実現するという考え方である。この考え方の背景にあるのは、現在の世界が地球規模の危機にあるという認識である。この地球規模の危機は、想像もできないような膨大で複雑な連関によって起こっている危機であるから、「近いところ」に関わろうとする共感ではとらえることができず、どうしても理性によってとらえる必要があるのである。
では、彼女は「合理的利他主義」や「効果的利他主義」の考えについてどう思っているのだろうか。まず「共感」の問題について、彼女はこれらの考えにおいて指摘されていることに理解を示すとともに、自らの経験を踏まえて「共感」のネガティブな効果について説明している。「共感から利他が生まれる」という発想は、「共感を得られないと助けてもらえない」というプレッシャーにつながり、社会を窮屈で、不自由なものにしてしまうというのである。次に「数字へのこだわり」に対しても、次のような違和感をもっている。一つ目は、数字にこだわる限り、金銭や物資の寄付という数値化しやすいものが効果的であるかのような印象を抱いてしまうこと。二つ目は、数値化は長い目で見て、社会を利他的なものにしないということ。つまり、彼女はこれらの考えに対して全面的に賛成をしていないのである。
また、彼女はこれまでの研究の中で、他者のために何かよいことをしようとする思いが、しばしば、その他者をコントロールし、支配することにつながること、言い換えれば善意がむしろ壁になることを感じていたと述べている。具体的に言うと、「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」が「これをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」に変わり、さらには「相手は喜ぶべきだ」になる時、利他の心は容易に相手を支配することにつながるのである。つまり、利他の大原則は、「自分の行為の結果はコントロールできない」ということであり、別の言い方をすれば「見返りは期待できない」ということだと、彼女は厳しく指摘しているのである。
この彼女の指摘から言えることは、私が校長講話で生徒たちに語った「“自利利他”の精神」や「合理的利他主義」の発想こそ他人に利することが巡り巡って自分に返ってくるという考え方であり、それは他者の支配につながる危険を孕んでいることになるのである。この点、私が教職に就いていた時にはっきりと認識していたことと同様であり、ともすると子どものためを目的にした教育という“利他”も、教師による子どもへのコントロールと支配につながる危険を秘めているのである。私自身もその誘惑に常に晒されていたが、少なからずの教師の言動にその気配を感じていたのが現実であった。
では、“利他”の思いが「コントロール」や「支配」にならないようにするために、教師はどうすればいいのだろうか。本書の中で彼女は、相手の言葉や反応に対して、真摯に耳を傾け、「聞く」こと以外にないと述べている。つまり、教師は子どものことを知ったつもりにならないこと。子どもに対して教師である自分との違いを意識すること。子どもの潜在的な可能性に耳を傾けるというケアこそが、“利他”の本質なのである。そして、よき“利他”には必ず「他者の発見」があり、そこから「自分が変わること」に発展するものなのである。私は、このような“利他”こそが教育において求められるのであり、教師が善意を押し付けるのではなく、うつわのように余白を持つことが必要なのだと強く感じた。彼女の発言内容の多くは、教育論として大きな意義を有するものであると改めて認識した次第である。