11月に入ってから、急速に新型コロナウイルスの感染者数が減ってきた。本県でもここ数日、感染者0名が続いていて、知事も恒例の記者会見で「“第5波”は収束した。」という主旨の発言をしていた。それに伴って、社会経済活動もコロナ前の日常性を取り戻そうとする動きが活発になっている。コロナ禍で客足が途絶えていた本県の観光地にも、祝祭日には多くの人々が訪れているニュース映像がテレビ画面に流れていた。また、私の自宅近くにある本市の中心商店街でも、「まん延防止等特別措置」の発令中に比べると明らかに買い物客の往来が多くなった。
そんな中、国や各地方自治体の行政機関は、次に来るであろう“第6派”に備えるために病床の確保や飲む治療薬の承認等の医療体制の整備に注力している。また、多くの国民も今まで行ってきたマスクの着用や手指消毒、屋内の換気等の感染防止対策を、油断することなく継続している。もちろん私たち夫婦も、気を緩めることなく続けてきている。このように、人間はいつ新型コロナウイルスという外敵に襲われても対応できるように、出来得る限りの防護策を構築しようとしている訳である。しかし、そもそも新型コロナウイルスは、我々人間にとって害を及ぼすだけの敵なのであろうか。私は“第5波”が収束したこの束の間に、新型コロナウイルスと人間との関係について少し考えてみたいと思い、それに関連しそうな本を読んでみることにした。
私が選んだのは、『ポストコロナの生命哲学―「いのち」が発する自然(ピュシス)の歌を聴け―』(福岡伸一・伊藤亜紗・藤原辰史著)という本。最近、私が注目している美学者の伊藤亜紗氏が著者の一人として名を連ねていることも選んだ理由の一つだが、生命における「動的平衡」という概念を提唱している生物学者の福岡伸一氏もその著者の一人であったことが大きい。本書は、NHKのBS1スペシャル「コロナ新時代への提言2 福岡伸一×藤原辰史×伊藤亜紗」(2020年8月1日放送)の番組内容や未放送シーンに加え、新たに鼎談を行い、大幅に加筆修正の上、構成したものである。
そこで今回は、本書の中の<第2部 鼎談・ポストコロナの生命哲学 第6章 身体観を捉えなおす>における鼎談内容の概要、特に福岡伸一氏の発言内容を中心にまとめながら、新型コロナウイルスと人間との関係や「新しい生命哲学」における身体観等について私なりに考えてみたことを綴ってみたい。
まず、鼎談内容の概要から。コロナ禍で外出して人と接触し、自分が変わるという経験をしなくなったことについて議論している中、藤原氏が今後オンラインで身体が映像化され、音声だけでコミュニケーションを取るというやり方は広まっていくと発言し、このようなデジタルな社会に適応した様々な文化的な営みが発見されていくだろうと、コロナ禍における「新しい生活様式」のポジティブな面を指摘している。それに対して、伊藤氏はオンラインのコミュニケーションが広がると、私たちはますます視覚に依存してしまったり、孤立感を強めてしまったりすることについて指摘している。そして、そこにその人が存在するという「いる感」のようなものが失われている点も付け加えて、沈黙が許されるOrihimeという分身ロボットの事例から「分身」という1.5人称の存在をうまく使っていくという考え方がポイントになると語っている。
次に、上述のような議論の流れから、新型コロナウイルスも私たち高等生物の遺伝子の一部が外部に千切れて出た「分身」であるととらえる話題が展開していき、福岡氏がウイルスについて次のようなことを語っている。…ウイルスという分身は、いろいろな宿主を渡り歩きながら、変異したり、その宿主の情報の一部を取り込んだりして、また元の宿主のところに戻ってくる。その際、宿主の免疫系を揺るがしたり、疾患をもたらしたりするのが病原ウイルスだが、全く何の症状も現わさない通過者(パッセンジャー)のような存在もある。しかし、パッセンジャーは知らないうちに、新しい遺伝情報を宿主にもたらしているかもしれない。進化のプロセスでウイルスが温存されてきた理由は、一つにはこの遺伝子の水平移動に関わっているからだと考えられる。だから、分身もまた生命の環の一部である。分身には功罪両面があるが、その罪としての存在感が、今回のコロナ禍でにわかに顕在化している訳である。分身としてのウイルスは、ずっと昔から、そしてこれからもその気配を消したり、現わしたりしながら、絶えず相互作用を繰り返すパートナーでもある。…
彼が語っている言葉によれば、新型コロナウイルスは我々人間にとって倒すべき“敵”ではなく、相互作用を繰り返す“パートナー”なのである。つまり、ウイルスも人間も全ての生命は、共存を目指ざす協働的な存在であり、大きな生命の環の動的平衡の中にいるのである。ただし、彼はこのピュシス的な自然のビッグピクチャーを俯瞰できるのは、おそらく人間の持つ想像力だけが成し得ることなので、常にそのことに思いを馳せるということは、利他性や共生といった理念を考える上でも大切なことだと指摘している。また、彼は新型コロナ対策としてのワクチンによる免疫系の賦活化を有効だと認めながらも、ピュシスとしての人間の身体性を信じることが基本だと主張した後に、鼎談の総括的な話をして締めくくっている。
最後に、福岡氏の総括的な話の概要を紹介し、それに対する私なりの所感を付け加えてみたい。彼は言う。歴史的に人間はロゴス(言葉)の力でピュシス(自然)の掟や呪縛(遺伝子の命令や種の存続のためのツールとしての個体というあり方)の外側に立つことで、個の価値や基本的人権の尊重というロゴス的約束を果たした。だからピュシスの原則に基づいて、ロゴス的約束を反故にしてはいけない。しかし一方で、生命は本来的にはどこまで行ってもピュシス的存在である。揺らぎ、ノイズ、汚濁、脆さ、不確かさを常に含んだものである。同時にそこには強靭さ、許容性、レジリエンス(回復性)といった特性も含まれている。だから、人間というのは、外部にロゴス的価値を信奉しつつ、内部ではピュシス的身体とも折り合いをつけていかなくてはならない、とても危うい両義的なバランスの上(これを福岡氏は「動的平衡」と呼ぶ。)にある存在だと言える。したがって、人間存在は常にままならないもので、制御不能ながら自律性を持つので、何とか折り合いをつけつつも、最終的には信頼をおくしかない、あるいは受け入れるしかないのである。「新しい生命哲学」は、このような身体観から始まるのではないか。
このような福岡氏の生命における「動的平衡」という概念は、理性による人間中心主義や物理学を中核とした自然科学主義によって対象としての自然を一方的に開発・利用してきたことが、現在の環境破壊や気候変動等という危機を起こした要因になっているという歴史的な事実を問い直す際のキーワードになると考える。このことは近代教育において、人間である子どもという自然を一方的に操作・指導してきたことが、現在の子どもたちの身体的・精神的疾患等という危機を起こした要因になっている事態と同定することができるのではないかと思う。よって、近代教育のあり方を問い直す視座としては、自他(自己と環境や他者と)の「相互作用」の連続的過程における自己組織化、端的に言えば自他の「自律性」の保障になるのではないだろうか。