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<身分け構造>と<言分け構造>をもつ人間の在り方について考える~丸山圭三郎著『フェティシズムと快楽』を再読して~

 当ブログの前々回の記事において、『ポストコロナの生命哲学―「いのち」が発する自然(ピュシス)の歌を聴け―』(福岡伸一伊藤亜紗・藤原辰史著)を取り上げ、<第2部 鼎談・ポストコロナの生命哲学 第6章 身体観を捉えなおす>における鼎談内容の概要と主に生物学者の福岡氏の総括的な話の概要を紹介した。その中で、人間というのは、外部にロゴス的価値を信奉しつつ、内部ではピュシス的身体とも折り合いをつけていかなくてはならない、とても危うい両義的なバランスの上(これを福岡氏は「動的平衡」と呼ぶ。)にある存在だと、彼はとらえていることが分かった。私は彼のこのような人間観に対して共感的な理解を示したが、その根底には今から30年以上も前に読み、その著者の理論に強く影響を受けた『フェティシズムと快楽』(丸山圭三郎著)という本の存在があった。

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 著者の丸山氏は元フランス語教師であったが、その後ソシュール言語学に関心をもち始め、ソシュール解釈に新地平を拓いた研究により、世界的にも評価された丸山言語哲学とも呼ばれる独自の思想を打ち出した言語哲学者である。私は本書以外では、『言葉のエロティシズム』と『生の円環運動』という本しか持っていないので、著者の学問的成果について詳しく評論する知見をもってはいない。ただし、本書で語られている<身分け構造>と<言分け構造>については、当時とても興味をもったので自分なりに理解する努力をしたことがある。

 

 そこで今回は、本書の内容概要を簡単に紹介し、その上で著者の語る<身分け構造>と<言分け構造>をもつ人間の在り方について要約するとともに、それに対する私なりの考えを付け加えてみたい。

 

 本書は、題名にもなっている「フェティシズムと快楽」と「<近代>批判のメリットと限界」、「言葉と文化」、「今、ここでの実践」という4回の講演のテープをもとに書き下ろされたものである。これらの講演内容は、基本的に身近な日常生活の周りに潜む惰性化し硬直化した様々な<実体論の罠>を抉り出し、流動化した生命の動きを回復するための<関係論>、さらには<生成論>という視座を示しており、教育における<二項対立的な議論>に囚われていた当時の私にとって「目から鱗」の本だったのである。特に第2章の「<近代>批判のメリットと限界」は、易しい言葉で語り掛けてくれてはいるがその内容はインパクトの強いものであったので、私の心には印象深く残っている。今回、再読してみて当時の知的興奮が鮮やかに蘇ってきた。

 

 では、本書に所収されている講演で語られている<身分け構造>と<言分け構造>の概念について話を進めていこう。まず、<身分け構造>という概念は、哲学者で身体論者の市川浩氏が、長い間西欧形而上学の根となっていた心身二元論を超えるべく、精神の対立項としての客体的身体という概念を斥け、大和言葉の<身>というキー・タームに代えて理論化した研究を踏まえている。市川氏は<身分け>を「身によって世界が分節化されると同時に、世界によって身自身が分節化される」という両義的・共起的な事態を意味する用語として使用したのであるが、著者はこの概念を借りて自らの理論を展開した。著者によると、<身分け>は生の機能に基づく種独自のカテゴリー化であり、身の出現とともに外界が「地と図」の意味分化を呈するゲシュタルト、つまり<身分け構造>を構成すると考えた。人間も動物も、この本能的目的関連が作り上げる<環境世界>に適応し、内応しているのである。

 

 ところが、人間だけは、このような本能の行動様式に加えて、もう一つの文化のゲシュタルト、つまり<言分け構造>を過剰物としてもってしまったと、著者は仮説を立てたのである。言葉を代表とするシンボル化能力が文化を生み出し、記号・用具・制度等を組み込む身の延長を可能にしたのである。しかし、その一方で身の方もこれに組み込まれて支配された状況をもたらした。この<言分け構造>というのは、<身分け構造>の上に実体的に重なるのではなく、すでに存在するものは常に<言分け>られた身である。言い換えれば、人間存在にとっての<身分け構造>はもはや変形され破綻しているのである。ただし、この破綻が生み出すものは、本能的図式には存在しなかったカオスとしての<欲動>であり、<無意識>であり、<エス>であって、この力が文化の快楽の源になると同時に、物象化して文化の悲惨をも生み出している。

 

 以上が、著者が理論化した<身分け構造>と<言分け構造>の概念なのであるが、これは当時私が信奉していたフロイド派心理学者の岸田秀氏の、人間は本能が崩れたために幻想としての言葉や文化等を作ったという「唯幻論」の考え方によく似ていると思った。私が違うなと思ったことは、岸田氏の「本能が崩れた結果、幻想を作った」という理路とは反対に丸山氏は「幻想を作った結果、本能が崩れた」という理路で説明していた点であった。しかし、当時の私にとってその原因-結果の議論はどうでもよく、「人間は<身分け構造>と<言分け構造>の重層的存在であり、それらが実体化・固定化しないように柔軟に流動的にバランスを取って生きることが<生の素晴らしさ>を味わうことにつながる」という人間観や人生観を得たことに大きな意義を感じたのである。そして、このことは私を「ポストモダン思想」へと接近させる契機にもなったのであるが…。

 

 ともかくも、このような読書経験をしていたことが、生物学者の福岡氏が唱える「人間というのは、外部にロゴス的価値を信奉しつつ、内部ではピュシス的身体とも折り合いをつけていかなくてはならない、とても危うい両義的なバランスの上にある存在だ」という「動的平衡」に基づく人間観にシンクロしたのではないかと考えた。「ピュシス」と「ロゴス」の動的平衡という考え方と、<身分け構造>と<言分け構造>の重層的・流動的バランスという考え方は、人間存在をとらえる視座として共通するものがあり、いかに当時に比べて大きく変化したように見える現代社会においても、決して手放してはいけない考え方や視座なのではないだろうか。