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「吃音」が出る時とその対処法について~伊藤亜紗著『どもる体』から学ぶ~

 新年が明けて2日のお昼には長女夫婦と孫Hが、3日のお昼には二女夫婦と孫Mが、年始の挨拶代わりに我が家を訪れて一緒におせち料理やお雑煮等を味わってくれた。老夫婦だけの食卓とは違い、正月らしい賑やかな食卓になった。また、それぞれの孫と一緒に遊んだり、孫の今後の成長を見守り支援していくための手立てなどについて子どもたちと話し合ったりすることができたことも愉快なことであった。正月早々、本当に幸せな時間をもつことができ、「今年もよい年になりそうだなあ。」と頬を緩ませる自分がいた。

 

    ところで、普段は滅多に行くことはない市の北西部にある市立図書館から借りてきた『どもる体』(伊藤亜紗著)を大晦日から読み始め、元日の昼間にはお屠蘇気分で、2・3日は就寝前と起床後のわずかの時間を活用して読み継ぎ、4日を迎えてやっと読了した。本書は、当ブログの数回前の記事にも記したように、私が特別支援教育・指導員として仕事をするようになってから関心をもつようになった「吃音」という障害の実態やその対処法等について知るために、是非とも読みたかった本なのである。

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 著者は、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授であり、研究のかたわらアート作品の制作にも携わるという女性である。当ブログの記事でも今までに単著では『目の見えない人は世界をどう見ているのか』と『記憶する体』、共著・編著では『利他とは何か』と『ポストコロナの生命哲学―「いのち」が発する自然(ピュシス)の歌を聴け―』を取り上げており、最近、私が特に注目している美学者である。本書によると、自身もいわゆる「隠れ吃音」タイプの軽い「吃音」当事者でもあるらしい。だから、いつか「吃音」をテーマにして本を書きたいと思っていたとのこと。ただし、自分の体と向き合うのが困難であり、研究の客観性を確保する必要性から、自分の吃音経験をいったん括弧に入れて研究を進めてきたそうである。

 

 本書は、そんな著者が「体のコントロールを外れたところ」に生起する「どもる」という経験を分析し、「しゃべる」の多様性に光を当てることと、「自分のものでありながら自分のものでない体」を携えて生きるという切実な問いに迫ることの二つを目的にして書いた本である。また、「吃音」という障害を「言葉がどもっているかどうか」ではなく、「体がどもっているか」に焦点を当てた身体論としての「吃音」論であり、それが『どもる体』というタイトルに象徴されている。だから、今のところ原因が分からず、治療法の有無も分からない「吃音」という手ごわい障害ではあるけれど、本書では原因探しや治療法の提案を行うことはしないで、あくまで「どもる」という身体的経験にフォーカスを当てているのである。

 

 では、今回の記事の本題に移っていこう。…「吃音」が出る時はどのような状況なのか、またその「吃音」に当事者はどのように対処しているかという昨年末に抱いた疑問を、解決するような記述を探しながら、私は本書を読み進めた。その結果、いくつかの記述にその回答らしき内容を見出したが、それを紹介する前に「吃音」に関して理解をする上で幾つかのキーコンセプトを解説する必要があると思った。そこで、次に幾つかのキーコンセプトの解説をなるべく簡潔にしておきたい。

 

    そのキーコンセプトとは、「吃音」の症状としての「連発」と「難発」である。私たちが「しゃべる」ことができるのは、身体の複雑なオートマ制御によっている。「連発」というのは、このオートマ制御のエラーのことで、「最初の音を繰り返す」症状のことであり、幼い子どもの多くが経験するという意味で「吃音」の最も原初的な形態である。「連発」が起きると当事者は、「次はどうしたら起こらないかな」と対処法を考えるようになり、そこから「連発→難発」という症状の進化が起こると考えられる。つまり、「難発」は「連発」の対処法でもあり、「吃音」の一つの症状にもなる。「難発」というのは、「連発」を隠そうとして特定の単語で音が出なくなり、しゃべれなくなってしまうこと。例えば、「たまご」と言いたい時に、「連発」が「たたたたたまご」であるのに対して、「っっっっっったまご」と「っ」しかない感じになるのが「難発」。金縛りにあったように、「たまご」と言おうとしても、体が全く受け付けない状態である。

 

 パソコンで例えれば、「連発」がパグ(キーボードを一度叩いただけで、ディスプレイに勝手に文字が並んでしまう状態)だとすれば、「難発」はフリーズ(キーボードをいくら打ってもディスプレイが反応しない状態)。「連発」は「意図しないのになってしまう」という「乖離」だが、「難発」は「意図してもうまくいかない」という「拒絶」のようなもの。どちらも、意識と体が分離している心身二元論であるという意味では同じだが、その分離の仕方が違っていて意図と体の間に緊張関係が生ずるのである。

 

 ところで、この「吃音」の症状としての「連発」と「難発」は、どのような状況の時に起こるのであろうか。私が本書の中でそれに関連している記述を見出した内容を要約すると、おおよそ次のようになる。

〇 「吃音」が出るか出ないかは、シチュエーションに極めて強く影響されるが、必ずしも緊張する場面だけでなく、リラックスしている場面でどもりやすい人は案外多い。

〇 「吃音」は「こういう時にどもる」という法則をきめるのをためらうところがある。

〇 研究者のドミニク・チェンさんは、仲間との議論に刺激されて思考が活性化し、すばらしいアイデアを思いつき、それを伝えたいという衝動に駆られて言葉を発する時、「連発」になる。

〇 「連発」という目前の厄災を暫定的に回避しようと対処する時、「難発」になる。

〇 自分に対して周りの人の期待の度合いが高かったり、逆に低かったり期待が自分に向いていなかったりする時、「吃音」スイッチが入りやすい。

 

 以上のことから、「吃音」が出る時の状況のあらましは分かるが、決定的な状況はないという、あいまいな回答しか得られなかった。それだけ「吃音」というのは何とも手ごわい障害なのである。

 

 さて、そのような手ごわい障害である「吃音」が出ないようにするために、当事者はどのような対処法を取っているのであろうか。この点については、前述したように「難発」という症状は「連発」が起こることを回避するための対処法でもあることをまず押さえておかなければならない。その上で、この「難発」を回避する対処法として紹介しているのが、次のようなものである。

〇 言おうとしていた言葉(例えば、「いのち」)を、直前で同じ意味の別の言葉(例えば、「生命」)に言い換えるという「言い換え」というテクニック。

〇 リズムに合わせたり、役柄を演じたりしながらだと、案外にすらすらしゃべれてしまう「ノる」というテクニック。

 

  「言い換え」はやはり症状としての側面を持っているらしいが、それを症状と感じない人もいるという。また、「言い換え」には、単語から単語への言い換えである「類語辞典系」と、意味を開くような言い換えである「国語辞典系」のパターンがある。さらに、指示語に言い換えるとか、他の人に言ってもらうとかというやり方の「言い換え」のパターンもあるという。とにかく、「言い換え」という対処法は、「難発」がもたらす体との緊張関係を瞬時に更新する力があると考えられるのである。

 

 「ノる」とは単にハイテンションになることではなく、意図と体の間に生まれる独特の関係のことであり、「既成のパターンを使いながら動くこと」である。「吃音」当事者によると、リズムや演技に没頭している間の「ノっている」状態は運動をたやすくするので、「吃音」が出にくいらしいのである。そう言えば、私が担当した「吃音」のある年長の男児も、朝の時間に歌を歌っている時は「吃音」が出なかったように感じた。私もその場面に遭遇した時、不思議な現象だなあと思った。でも、本書を読んで、歌の「変化を含んだ反復としてのリズム」を「刻む」働きが重要だと分かり、多少は「吃音」の不思議の秘密を探り当てたような気になった。

 

 リズムと演技に没頭している時、自分は自分の運動の主人であることから部分的に「降りて」いる。つまり、意識は体が行う運動の主人では決してないのである。そこで問題なのは、この「降りる」の度合いである。確かに「ノる」ことは楽しいことだが、自分の思いとは関係なく勝手に体が動かされたら、とてつもなく苦痛に感じるのではないだろうか。この「ノる」の先にある「乗っ取る」の領域になると、私は「モノ」のような自由を奪われた存在になってしまう。「難発」という「吃音」を回避するために対処したことが、逆に自分を別の苦痛と不安に陥れてしまうことになるのである。「吃音」においては、ここでも一つの現象が「対処法」としての側面と、「症状」としての側面の両方を持つということが起きるのである。「吃音」は、本当に手ごわい障害なのである!