ようこそ!「もしもし雑学通信社」へ

「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

コロナ禍で「濃厚接触」という言葉の導入がもたらした副作用について~古田徹也著『いつもの言葉を哲学する』から学ぶ~

 新型コロナウイルスのオミクロン株の感染力がすごい。東京都はあっという間に過去最高の1万人超えになり、本県でも過去最高の新規感染者数を連日記録している。今のところ重症化するリスクは低く、無症状や軽症の陽性患者が多いらしい。しかし、だからといって完全に安心することはできない。どのような後遺症が現れるか分かっていないし、その軽重度も見極めることはできていない。できるだけ感染しない方がよいのである。ただ、これだけ感染者数が増えてくると、特にエッセンシャル・ワーカーがオミクロン株に感染して仕事ができなくなると、社会・経済活動の停滞が起きて通常の生活機能の維持が困難な状況になってしまう。しかも、隔離期間が短縮されたとは言え、現在でも「濃厚接触者」に対して10日間の外出自粛、健康観察という隔離措置がなされているので、ますます社会・経済機能の維持が難しくなっているのである。

 

 それにしても、一般社会に流布されて今では日常会話にも出てくる「濃厚接触者」という言葉の意味って、本当に分かっている人はどれぐらいいるのだろうか。何となく分かっているようで本当にはよく分からなっていないのは、私だけなのだろうか。新型コロナウイルスの感染について報道されるようになった約2年前に、この「濃厚接触者」という言葉をテレビ・ニュースのテロップで最初に目にした時の私の印象は、「濃厚接触というのは、欧米人の慣習であるキスやハグのような濃厚なスキンシップをすることだろう。」だった。だから、「濃厚接触者に該当する人は、日本では数少ないだろう。」という楽観的なとらえ方をしていた。ところが、その後の報道番組で解説されていた「濃厚接触者」という言葉の意味は、私の最初の印象とは随分違っていたのである。「こんな誤解されるような用語をなぜ使うんだろう。」と、その時に私は大きな疑問をもってしまった。

 

 このような疑問を抱き続けていた私が、最近、その疑問を少し溶解させてくれるような文章に出合った。それが、『いつもの言葉を哲学する』(古田徹也著)である。著者の古田氏については、以前に読んだ『日本哲学の最前線』(山口尚著)の中で取り上げられていた哲学・倫理学者であるとは認識していた。また、その中で彼の著書『言葉の魂の哲学』について解説されており、私自身の言葉やその表現の在り方についての課題意識に重なることもあって、彼の「言葉の浅い理解へ落ち込まぬよう、むしろ言葉をめぐって悩むことが大事だ」という最終テーゼを印象深く覚えていた。だから、自宅近所の大型書店で新書版の本書を見つけた時、私はそのタイトルに大いに興味を抱いて、目次にざっと目を通した後に本文をぺラペラ捲って斜め読みをしてみた。すると、4章立ての全体構成や各章のテーマなどが内容的に面白そうで、しかも大変に分かりやすい文章表現だったのですぐに購入したという次第である。

f:id:moshimoshix:20220123141057j:plain

 本書の「第3章 新しい言葉の奔流のなかで」の中の<5「ロックダウン」「クラスター」-新語の導入がもたらす副作用>という文章の中で、「濃厚接触」に関する記述がある。次に、その概要を箇条書き的にまとめてみる。

〇 「濃厚接触」という言葉は、疫学上の専門用語であるclose contactの訳語である。

〇 疫学上の専門用語としての「濃厚接触」は、同じ部屋の中で一定の時間会話を交わすことといった、文字通りの意味では触れてすらいないケースを指す。

〇 「濃厚接触」という言葉の文字通りの意味と、疫学上の意味との乖離が、実際に害悪をもたらしたと思う。

〇 「濃厚接触」という言葉と、食卓を囲んだりおしゃべりをしたりという営みは通常は結び付かない。それゆえ、危険と思わずにそうした営みを続けた人々が当初は少なからずいたであろう。

 

 因みに、厚生労働省がホームページで示している最新の「濃厚接触者」の定義として示しているのは、次の通りである。

〇 濃厚接触者とは、陽性となった人と一定の期間に接触があった人をいいます。ここでいう一定の期間は、症状のある人では症状出現から2日前、症状のない人では検体採取時から2日前の期間です。
 この期間に、以下の条件に当てはまる人を濃厚接触者といいます。

〇 陽性者と同居している人
〇 陽性者と長時間接触した人(車内、航空機内などを含む。機内は国際線では陽性者の前後2列以内の列に搭乗していた人、国内線では周囲2m以内に搭乗していた人が原則)
〇 適切な感染防護なしに患者(確定例)を診察、看護もしくは介護していた人
〇 陽性者の気道分泌液や体液などの汚染物質に直接触れた可能性が高い人
〇 マスクなしで陽性者と1m以内で15分以上接触があった人

 ただし、これらの内容はあくまで原則であり、あらゆる状況を聞き取ったうえで保健所が総合的に判断することになっているが、それにしても何と「濃厚接触」という文字通りの意味とのズレが大きいのだろうか。

 著者は、文章の中で「濃厚接触」以外にも、「都市封鎖」(lockdown)や「社会的距離」(social distance)等という訳語について触れて、「耳慣れない言葉を馴染みの言葉の組み合わせに安易に置き換えることは危険だ」と指摘している。その理由は、馴染みの言葉は私たちに特定のイメージを自ずと喚起するものだから、そのイメージによって私たちを誤った理解や行動へと導きかねないからだと言っている。もちろん、かといってカタカナ語を私たちの間に無闇に生み出して、丁寧な説明もなく濫用するのも問題だと提起している。その理由は、私たちの間に理解の偏りやコミュニケーション不全を生み、適切な行動を取れなくさせかねないからだと言っている。

 

 この後、著者は「カタカナ語であれ何であれ、新語の導入には理解の偏りや誤解といった副作用があるので、それをできるだけ抑えられるように、公共性の高い領域において新語を導入する際には、はじめのうちにその適切さを皆で慎重に検討すべきであり、また導入後も、意味の手厚い説明を心掛けるべきだろう」とまとめている。そして、特定の分野を研究する専門家はもともとの原語が念頭にあるので、カタカナ語の分かりにくさや訳語の誤解のしやすさといったものが見えにくくなっていることがあると警鐘を鳴らしている。この警告の内容は、私にも耳が痛い過去がある。

 

 私が現職中に地元国立大学教育学部附属小学校に勤務していたことがあることは、今までの記事にも何度か記したことがあるが、その当時に教育実践研究に関する論考を書く中で新語をよく使っていた。そして、その論考で使用した特にカタカナ語の新語に対して、先輩や同僚等から「意味がよく分からない。もっと分かりやすい言葉にするとか、具体例を示すとか意味内容を説明してから使うとかできないのか。」という批判を浴びることがよくあった。その時は、批判者に対して「自分がもっと勉強して、末尾に示している参考文献を読んで理解すればいいのではないか。」と内心で反論していた。しかし、今、改めて振り返ってみれば自分の努力不足を痛感する。

 

 私の失敗事例はともかくも、公共性の高い分野で新語を導入する場合には、専門家だけに任せず、多様な分野の有識者や各世代の市民の見解や感覚等も踏まえて、初期段階でよく吟味して、適切な言葉を選び取るという過程を経ることが必要なのである。そういう意味で、このコロナ禍において導入されている多くの新語の副作用について、私たち市民が時間の経緯に流されず、時々は立ち止まって吟味することを怠らないようにしたいものである。