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脱原発を志向する哲学とは?①~國分功一郎著『原子力時代における哲学』から学ぶ~

 ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まって約3週間が過ぎた。ウクライナ軍の思わぬ抗戦に遭って戦争が長期化してきたために、プーチン大統領は当初の思惑とは違った展開になり焦っているのではないか。国際的な非難はもとより、膨大な軍事費や国内経済の疲弊等による打撃、そして何よりも国内の徹底した情報統制に綻びが見え始め、国民世論の戦争反対への傾斜という事態の推移が、その焦りの要因になっているのではないかと思われる。そのような中、プーチン大統領ウクライナの降伏を早めるために、化学・生物兵器のみならず核兵器も使用するのではないかとの憶測が流れ、もしかしたら現実化するのではないかという国際的な不安が起こっている。

 

 旧ソ連が崩壊して東西陣営による冷戦が終結した後、核兵器を使用した戦争は人類の滅亡につながるという共通認識で国際社会が合意していたが、その平和的なグローバル構造は今回のプーチン大統領による蛮行によって崩壊しかねない事態を迎えている。また、前回の当ブログの記事でも少し触れたが、ロシアは放射能汚染という大惨事が起きるかもしれないのに、ウクライナの電力供給の要である南部ザポロジェ原発を攻撃して制圧している。プーチン大統領は、先の大戦末期の1945年に広島や長崎に投下された原爆や、2011年に東日本大震災による大津波によって起きた東京電力福島第一原子力発電所の事故による被害情況について、正しく認識しているのだろうか。また、国際平和を謳っている国際連盟安全保障理事会常任理事国であるという自国の責任ある立場について、どのように考えているのだろうか。

 

 私は今回のプーチン大統領原子力に対する無見識ぶりを知るに至り、自分自身の原子力に対する認識を問い直してみた。すると、「日本の核兵器の開発や保有については反対だが、アメリカの核兵器の傘に下での日本の安全保障体制は容認。原発には理念的に反対だが、他のエネルギーによる発電よりは低コストであり効率的な核の平和利用なのだから現実的に賛成」という認識であることを自覚しなければならなかった。でも、そのような原子力に対する認識でよいのだろうか。私は自分の認識を再構成するきっかけにしようと、しばらく積読状態にしていた『原子力時代における哲学』(國分功一郎著)を読むことにした。

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 そこで今回と次回において、著者が本書の中で主張したかった内容(特に本編の前半と後半に分けた内容)の概要をなるべく簡潔にまとめ、最後に本編の内容に対して私なりの所感を付け加えてみようと考えている。本書は、著者が2013年7月から8月にかけて行った全4回の連続講演「原子力時代における哲学」の口述筆記に大幅な加筆修正を施した内容を本編とし、2018年9月15日に行われた「ハイデガー・フォーラム」第13回大会において口頭発表された論考を巻末付録として位置付けた構成になっているが、巻末付録の内容は本編と重複する内容もあることから当ブログの記事ではあえて触れないことにしたい。

 

 まず、本編の導入になっている第1講の<1950年代の思想>では、特に1950年代に注目して当時の思想家・哲学者が核兵器や「核の平和利用」を謳った原子力発電に対していかなる議論を展開したかについて紹介している。一人目はギュンター・アンダーソンを取り上げ、彼が核兵器の問題を哲学的に論じて批判した点について著者は評価しつつも、原子力発電の問題を考察の対象にしなかったことに疑義を感じている。また、二人目に取り上げたハンナ・アレントに関しては、原発について哲学的に考察していた点を評価しつつも、それを技術における疎外という一般的な図式で論じていた問題点を指摘している。しかしながら、核兵器が絶対的に否定される中で、「原子力の平和利用」が大勢に受け入れられていた20世紀半ばに、原子力そのものに根本的な批判をしていた例外的な思想家・哲学者がいた。それこそが、マルティン・ハイデッガーであると著者は言っている。

 

 次に、第2講の<ハイデッガーの技術論>では、原子力技術にまで敷衍されるハイデッガーの技術に対する独自な考え方、つまり、「技術とは自然がもっている力を外に導いていくことなのだ」という考え方について具体的に論じている。また、この技術(テクネー)の本質を探るためにソクラテス以前の自然哲学にまで視野を広げつつ詳細に論じていて、私はハイデッガー流の技術論の核心的な内容をおおむね理解することができた。ところが、ハイデッガー原子力に関する現代技術は、このテクネーの本質から根本的にずれてしまい自然を挑発してしまっている点に問題があると鋭く批判するのである。

 

 さらに、第3講の<『放下』を読む>では、ハイデッガーが生前に刊行した例外的な書物の一つ『放下』というテキストを使って、彼が原子力に対してどのように語っているかを検討しながら読み進めている。特にその中で、『放下』の中に位置づけている対話篇「放下の所在究明に向かって」を詳細に解読している。第4講の<原子力信仰とナルシシズム>では、ハイデッガーの言説だけでなく、現代哲学の一つの領野である精神分析の知見も織り交ぜて「原子力における哲学」を追究している。これら本編の後半部分の内容に関しては、未読の部分があるのでしばらく時間を置いて、次回の記事でもう少し詳しく触れてみたいと思う。