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脱原発を志向する哲学とは?②~國分功一郎著『原子力時代における哲学』から学ぶ~

 前回は、私の原子力に対する認識の再構成を図るきっかけにすべく読み始めた『原子力時代における哲学』(國分功一郎著)の本編前半の概要についてまとめた。まず、核兵器に対する絶対的な拒否の半面、「原子力の平和利用」という原発については大勢が受け入れようとしていた20世紀半ば、原子力そのものに対して根本的な批判をしていた唯一の思想家・哲学者は、マルティン・ハイデッガーであった。その彼の技術(テクネー)についての独自の考え方、つまり「技術とは自然が持っている力を外に導き出すことだ」という考え方について簡単に紹介した。しかし、「現代技術である原子力の技術は、その技術論とは相反して自然を挑発するものである」と彼は批判したのである。

 

 そこで今回は、ハイデッガーが自ら著した『放下』において原子力技術に関してどのように語っているかを読み解いた第3講と、著者がハイデッガーの言説だけでなく、精神分析の知見も織り交ぜて「原子力時代における哲学」を語った第4講、つまり本編の後半部の概要についてまとめてみたいと思う。

 

 第3講<『放下』を読む>において、著者はまず「放下」という講演から抜粋した内容の一部を紹介しながら、ハイデッガー原子力技術に対する考え方を指摘している。簡潔に述べれば、核エネルギー使用の根拠を考えるのが省察する熟慮のはずなのに、そういうことを考えないまま科学は事を進めてしまうと強い危機感を抱いていたハイデッガーは、科学技術との関わりにおいて、我々は「放下」という態度を取ることが大切であると考えたのである。

 

    ここで使われている「放下」というのは、「技術そのものはいいけれど、技術が我々を独占するようになってきたら、それに対してノーという態度」のことであり、「隠された意味に向けて我々が自分たちを開け放つ態度」のことでもある。ハイデッガーは、「このような態度によってこそ、技術について隠されている秘密=謎を我々に告げてくれる」と語っている。そして、技術について隠されている秘密=謎が分かれば、何を思考するための地盤にすればよいかが分かってきて「来たるべき土着性」(極めて身近にあるが、具体的には示されていない!)を持つことができると、その展望を見通しているのである。

 

 次に、著者は科学者・学者・教師という三人の登場人物が思惟について会話を展開する「放下の所在証明に向けて」(「アンキバシエー」と題された長い対話篇の末尾部分)について読み解いていく。この中で、教師が「思惟するためには端的に意志の外部に留まっているような無-意欲」という状態、言い換えれば「放下」という状態にならなければいけないと言い、それに対して科学者が「放下は能動性と受動性の区別の外部に横たわっている」と語り、学者が「放下はそもそも意志の領域の内には属していない」と話す場面を紹介する。そして、この場面で重要なことは、「これを考えるぞ!」という態度で何かを考えるのではなくて、何か発信されてくるものを受け取ることができるような状態をつくり出すことが思惟であり「放下」であると、ハイデッガーが語っていると著者は解釈している。

 

 ハイデッガーが『放下』というテキストで原子力という問題に対して出した答えは、新しい核エネルギーの使用の根拠について「考える」ことが大切であるという単純なものであった。しかし、彼は「では皆さん、一緒に考えましょう!」と言っても人は何も考えないことを知っていた。だから、彼は「考えるとは何か」、つまり思惟の本質とは何かを巡る会話そのものを、考える過程として書き記すことを試みた。したがって、『放下』において重要なのは、言っていることとやっていること、つまり内容と形式とが一致していることなのである。

 

 第4講の〈原子力信仰とナルシシズム〉についても触れておこう。ここでは、脱原発を志向する哲学の問題として、「なぜ人々は原子力をこれほどまでに使いたいと願ってきたのか」を追究することがポイントである。著者は『日本の大転換』という著書を著した中沢新一氏の言説を参考にして、「原子力技術は、生態圏の外部である太陽圏で起きる核融合反応を媒介なしで内部に取り込もうとする、言い換えれば外部からの贈与に依存しない完全に自立したシステムを作り出そうとする希求が根底にある」ととらえており、このことが原子力信仰の内実ではないかと鋭く指摘している。そして、原子力信仰の根幹にあるのは「贈与を受けない生」への欲望であり、それは人間の二次ナルシズムの問題と結びついているのではないかという精神分析の知見を適用してとらえようと著者はしている。

 

 最後に著者が示した「人類が原子力への欲望、贈与なき生への欲望というナルシシズムを乗り越えていくことで、初めて最終的な脱原発が達成されるだろう」という一応の結論は、私にとってはあまりにあっけないものであった。原子力技術がもたらす「贈与を受けない生」への憧れを、私たち人類は本当になくしていくことはできるのだろうか。一人一人の人間が自分の人生の中でそれなりにナルシシズムを乗り越えていくように、人類もナルシシズムをそれなりに乗り越えていくことができるという著者の見通しは希望的な展望であり、その実現は困難なように私には思われる。でも、私の今までの原子力に対する認識を再構成するきっかけにはなった。今からでは遅すぎるかもしれないが、これから私なりの「原子力時代における哲学」を作り上げていきたいと考えている。