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グレーゾーンにこそ<生きること=学ぶこと>の醍醐味がある!~千葉雅也著『現代思想入門』の「はじめに 今なぜ現代思想か」に共感して~

 最近、私のTwitterのタイムラインで評判になっている『現代思想入門』(千葉雅也著)を読んでみた。今、再度読み直しているのだが、改めて「はじめに 今なぜ現代思想か」の内容が私の心に深く沁み込んでくる。というのは、今から約30~40年前に私が地元の国立大学教育学部附属小学校に勤務していた頃に、二人の先輩(10歳上と20歳上)教師から、戦後に流行した「実存主義」の哲学や1960年代にフランスで大ブームとなった「構造主義」、さらに構造的な二項対立の脱構築を図る「ポスト構造主義」等の考え方を取り入れた教育論について学んだ経験を想い起したからである。

 

 当時、どのような教育をすれば子どもの自己実現を図ることができるかという問題意識で実践研究に取り組んでいた20代~30代の私は、先輩たちが展開する哲学的・現代思想的な視座に立った教育論を傍で聴くだけの存在であったが、教育という営みをそのような視座からとらえる発想に驚嘆するとともに、二人の教師としての在り方に憧憬の念を抱いた。しかし、浅学菲才な私は「実存主義」や「構造主義」に関連する本を少しずつ読んで何とか理解するのがやっとで、「ポスト構造主義」を標榜するジャック・デリダやジル・ドゥル-ズ、ミッシェル・フーコーなどの著書や解説書にまで手を出す余裕がなかった。その代わりというのも変だが、その後に教育実践の在り方を問い直す上で有意義だと認識したフッサールの「現象学」に対する関心を深めて、その理論を分かりやすく解説していた竹田青嗣氏や西研氏らの著書を読んで学ぶ方向へ傾斜していった。その結果、「ポスト構造主義」や「ポスト・ポスト構造主義」に関しては、間接的に触れる程度で直接的に学ぼうとすることから逃げてきたのである。

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 現職を退いて約7年の月日が過ぎた今、もう学ぶ必要もなかろうと思っていたが、今回、ちょっとした興味から本書を手にして「ポスト構造主義」や「ポスト・ポスト構造主義」の思想のエッセンスも学ぶ機会を得ることができ、私は久し振りに大きな知的刺激を受けて少し若返ったような気分になった。特に「はじめに 今なぜ現代思想か」に書かれていた著者の現状認識とそれに対する問題意識に強く共感することができたことは、私のような高齢者にとっても本書を読む意義があったと嬉しく思った。

 

 そこで今回は、本書の「はじめに 今なぜ現代思想か」の内容で特に私が強く共感したことをまとめるとともに、それに関連して今から約30~40年前当時に先輩教師から学んだことや自分なりに考えていたことを想起しながら綴ってみたいと思う。

 

 著者は、今なぜ現代思想なのかという理由として、おおよそ次のように説明している。

…現代は社会全体が秩序化、クリーン化という方向へと改革が進んでいて、それによって生活がより窮屈になったり、自分たちを傷つけたりすることになっている。それに対して、現代思想というのは、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する思想であり、それが今、社会や人生の多様性を守るために必要である。人間は歴史的に、社会および自分自身を秩序化し、ノイズを排除して、純粋で正しいものを目指していくという道を歩んできたが、このことで誰も傷つかず、安心・安全に暮らせるというのが本当にユートピアなのだろうか。犯罪の防止は必要だとしても、それは過剰な管理社会が広がることになるのではないだろうか。我々はこれらの現状に対して警戒しなくてはならないし、その点に関わっている思想こそ人が自由に生きることの困難について語っている現代思想ではないだろうか。…

 

   ここで言われる「現代思想」とは、1960年代から90年代を中心に、主にフランスで展開された「ポスト構造主義」(構造主義の後に続く思想のこと)の哲学を指している。では、そもそも「構造主義」とはどのような考え方か。著者は、「構造」とはおおよそ「パターン」と同じ意味だと示し、「構造主義」とは「具体的には異なっていても、別の作品やジャンルで、抽象的に同じパターンが繰り返されているという見方」であると大胆に説明していて、私はこの力技の解釈ができる著者の哲学的な力量に正直、脱帽した。それに対して、「ポスト構造主義」とは「パターンの変化やパターンのから外れたるもの、逸脱を問題にし、ダイナミックに変化していく世界を論じようとした学問の方法論」であると、著者は実に分かりやすく定義付けてくれている。

 

 また、この「ポスト構造主義」の代表的三人、デリダドゥルーズフーコーの共通項を、「二項対立の脱構築」(物事を「二項対立」、つまり「二つの概念の対立」によって捉えて、良し悪しを言おうとするのをいったん留保すること)ととらえている。「二項対立」はある価値観を背景にすることで、一方がプラスで他方がマイナスになるものなのだが、そもそも「二項対立」のどちらがプラスなのか、絶対的には決定できないものだと、「ポスト構造主義」は考えるからである。この「二項対立」のプラス/マイナスは、非常に厄介な線引きの問題を伴うのである。その線引きの揺らぎに注目していくのが「脱構築」の思考なのである。

 

 さらに、著者は人間の生き方における能動性と受動性という「二項対立」においても、どちらがプラスでどちらがマイナスかということを単純に決定できないと示し、「能動性と受動性が違いに押し合いしながら、絡み合いながら展開されるグレーゾーンがあって、そこにこそ人生のリアリティがある。」と語っている。私はこの言葉を目にして、今から37年前に附属小学校の研究大会の全体会で発表した時のことを想い起したのである。

 

 私が全体会で発表したテーマは「一人ひとりの動きを高め合う体育学習―「基本の運動」を中心に―」で、それまでの体育科授業の在り方は教師の一方向的な指導を中心にした「教師指導型」であるから、教師と児童との相互作用過程を大切にした「中空構造型」へと構造を転換することが大切であると提案した。その際のOHPシートに描いた図は、左側に秩序や意識、勉強等を重視する「教師指導型」の円を、右側に混沌や無意識、遊び等を重視する「児童放任型」の円を描き、その2つの円が重なり合う部分、つまりグレーゾーンに「中空構造型」の体育科授業を位置付けたものであった。今から考えると、この図こそ二人の先輩教師から学んだ「ポスト構造主義」の考え方を生かした、つまり「二項対立」図式から何とか「脱構築」しようと苦心して描いた図だったのである。

 

 私は当時、「ポスト構造主義」の考え方をきちんと学ぶことをしなかったが、体育科の授業の在り方をもっと教師と児童、児童相互の豊かなコミュニケーションに支えられた学びの構造に転換したかった。それは、人生のリアリティは人格的に対等な自他の相互作用の過程にあるのだから、授業も教師と児童、児童相互が人格的に対等な存在として相互作用する過程を保障すべきだと考えたからであった。つまり、<生きること>と<学ぶこと>は決して分離されるものでなく、<生きること=学ぶこと>という考え方で授業の構造を再構築したかったのである。今、改めて振り返ると、私の当時のこのような考え方は、「二項対立の脱構築」を目指した「ポスト構造主義」的な授業観だったのだと再認識したのである。

 

 本書の「はじめに 今なぜ現代思想か」を読み返しながら、私は研究大会の全体会で研究発表した当時の懐かしさとともに、自分なりの考えが間違っていなかったことに多少なりの誇りを感じることができた。

 

 そうなのだ、「グレーゾーンにこそ<生きること=学ぶこと>の醍醐味がある!」