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山間部の中学校に勤務していた頃の苦い経験を振り返る!~池永陽著『青い島の教室』をきっかけにして~

 当ブログの以前の記事(2020.7.28/2021.5.16付け)で取り上げた『コンビニ・ララバイ』や『珈琲屋の人々』シリーズの著者である池永陽氏の『青い島の教室』という作品を読んだ。都内の中学校で体罰問題を起こし、伊豆諸島の離れ小島に飛ばされた国語教師・柏木真介は、教育に対するやる気を失って適当な教師生活を送り、生徒たちから「ぐうたら先生」というあだ名をつけられていた。しかし、勤務校において虐めや学級崩壊、モンスターペアレントなどの問題が起きる中、ある夏休みに思いもよらない事態が起きる。…荒れた学校現場を描いた小説を読んでいると、私は現職中に遭遇した苦い経験をついつい思い出してしまった。

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 そこで今回は、その苦い経験について、思い出すままに取りとめもなく振り返りつつ、現時点で自分なりに反省することを綴ってみたい。恥を忍ぶような記事になりそうだが、誰かの参考になれば…という思いである。

 

 私は教職26年目に、初めて小学校から中学校に異動になった経験がある。町内の4つの中学校を統合して4年目を迎えた、山間部にあるまだ新しい木造校舎の中学校だったが、廊下の壁には生徒の鉄拳で何か所か穴が空いているような教育困難校であった。当時、私は教頭職だったので、学校運営の中核を担いながら、中学3年生の3クラスの社会科(公民的分野)の授業も担当することになった。初めて中学校の教壇に立った時に、武者震いをするぐらい緊張したことを今でも覚えている。3月までは同町内の小規模僻地校で昇任教頭として、可愛い小学1・2年生の複式学級の担任を兼務して楽しく過ごしていた。ところが、4月になると荒れた中学3年生を対象にして授業をすることになるとは、まさに「晴天の霹靂」といっても過言ではない状況だったのである。

 

 当時の教育実践論文「思春期の子どもにかかわる<他者>としての教師のあり方を探る~中学校現場における学習指導や生徒指導のあり方に関する考察を通して~」は、当ブログの以前の記事で3回(2019.8.1/同年8.5/同年8.7付け)に分けて掲載したので、既に目を通された読者の方もいるかもしれない。形式は論文風であるが、内容は実践報告レベルのものだったけれど、自分なりに当時の教師や生徒の実態やその関係性等をなるべく客観的にとらえようと四苦八苦しながら書き上げたことを覚えている。当論文を読んでもらえば、その中で私の苦い経験の内容はおおよそ察しがつくと思うが、具体的な中身は分からないであろう。だから、今回は少し具体的な経験話を綴ってみようと思っている。

 

 初めて中学3年のあるクラスで社会科の授業をした時のことである。私が教室へ足を踏み入れて室内を見回すと、ほとんどの生徒たちはどんよりと曇った眼差しを私の方へ一斉に向けていた。よく見ると、廊下側の一番前に座っている一人の男子生徒は、上半身を机に突っ伏して寝ているような状態。反対の窓側に座っている一人の女子生徒は、足を組んで化粧直しをしているような態度、後ろの方の席に座っている男子生徒は、反り繰り返った傲慢な姿勢、等々。その荒廃的で沈鬱な雰囲気は、つい先日まで経験していた小学1・2年の複式学級の明朗な雰囲気とは雲泥の差!その情況をとらえた瞬間、心身共に萎れそうになった私だったが、努めて明るい表情を装って教卓の前まで進み、「皆さん、おはようございます」と爽やかな声で挨拶をした。しかし、半数ほどの生徒たちの「おはよーっす」という無気力な声が返ってきただけで、30名近くの生徒たちの反応は薄かった。

 

 それでも、私は気分を取り直して、簡単な自己紹介をした後、出席簿を手に取り生徒一人一人の名前を呼んだ。この際の返事も生気がない声が多かったが、はっきりと「はい」と返事した生徒も少なからずいたので、私は少し安心した。そして、これからの社会科の授業の進め方について丁寧に説明したり、授業ノートやテストの訂正ノートの書き方等について具体的に指導したりして、初めての長い長い授業が終わった。小学校で授業していた時に45分間を長いと思ったことはほとんどなかった。確かに中学校の授業時間は50分間だから物理的には長いのだが、その時に私が感じた長さは心理的に強いストレスを抱えたままだったので、それ以上の長さを感じた。「この先が思いやられるな。…」職員室に戻る私の足取りは重かった。

 

 私は無気力な生徒たちを少しでも授業に主体的に取り組ませたいと願っていたが、何分にも中学校社会科の授業をするのは初めてだったので、最初はオーソドックスな課題解決的な授業を実践していた。しかし、教科書の本文を正確に読み取ることも覚束ず、資料活用能力も不十分な生徒たちには少し難しい学習方法であり、主体的に取り組む学習活動を保障することにはならないとしばらくして悟った。そこで、私は参考になりそうな中学校・公民分野の教材研究や授業づくりの書籍を数冊買い込んで自主研修し、様々に工夫した学習活動を採り入れた授業実践を試みた。例えば、身近に起こった社会的事象から醸成させた問題意識に基づいて設定した問題解決的な学習活動、社会的な意味を深く考えさせるために行ったディベート的な学習活動、基礎的基本的な学習事項を習得させるために小グループで行ったテスト問題作成型の学習活動、等々。

 

 すると、生徒たちは今までに経験したことがない様々な学習活動に最初は興味をもって取り組むのだが、その社会的事象の本質的な意味について考えを深める段階になると急に興味を失ってしまい、最後はその意味理解に十分に至らないままで学習が終わってしまうことになった。結果的に、生徒たちの知識・理解面での学力を高めることにはならなかった。高校受験を控えて焦り出す生徒に対して有効な手立てを講ずる必要性を感じた私は、最終的には各単元の重要事項を問う穴開きプリントを使用した個別的な学習活動を導入することにしたのである。若い頃から子どもたちの社会的な自己実現を目指すような授業を目指して実践的な教育研究を積み重ねてきた私にとって、ある種の敗北感を味わった苦い経験であった。

 

 今、改めてこの苦い経験を振り返ってみても、当時の悔しい思いが蘇ってくる。それは、教師としての力量不足を否応なく実感した経験だった。では、何がいけなかったのか。それは、まず「学び」から逃走しているような生徒たちの実態を目の当たりにして、教頭という立場で彼らとどのような関係性を築いていったらよいか戸惑ってしまったこと。そのために、思春期の子どもたちに対してついつい迎合的な接し方をしてしまい、必要な場面で教師として信念をもって毅然とした態度が取れなかったこと。また、公民的分野の教材や指導法に関する研究等が不十分だったために、生徒たちに魅力ある教材を提供したり、一貫した学習方法を通したりすることができず、その時その場における目先の興味や関心を優先してしまったこと。そして、何よりも無気力に陥っている生徒たちの生活上の背景や原因等について深く省察することを怠ったことである。

 

 これらの反省内容は、教育活動や授業実践において当然求められる基本的な事柄であるが、当時の私は教員としての見栄を張ろうとする気持ちを優先させていたのではなかったか。それまで小学校教師としての自分の力量に対して自信をもっていた私は、中学校へ転勤して教育困難な事態への適切な対応を迫られたことで、それが自分の慢心になっていたことを悟ることになった。私にとって、教師としてだけでなく一人の人間としての新たな目標や理想とすべき姿を見出すことに繋がった点で、この苦い経験は有難いものであったと今だから言える。人生は常に試行錯誤や失敗の連続的過程であり、その成果は結果的に後から付いてくるものなのだ。つくづくそう思う。