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教育学のメタ理論体系について~苫野一徳著『学問としての教育学』から学ぶ~

    昨年7月から本市教育委員会の学校教育課で特別支援教育指導員として勤務し始めて、この4月で10か月目を迎えた。年度が変わって職場環境が4階の学校教育課分室から3階へ移動し、7名の指導員の座席も通路を挟んで4名と3名の2つに分かれるという変化があったので、本当に新たな気持ちでスタートすることになった。しかし、まだ年度当初ということもあり、今のところ本来の教育相談業務よりも環境整備や事務の補助等の業務をすることが多い。

 

 昨年度は、勤務したばかりの頃から教育相談業務が中心だったが、本年度になっての今までの業務内容はこれからの教育相談に向けての雑用的な業務のような感じである。本来の日常的な教育相談の業務内容は、何らかの「困り感」がある子どもの行動観察等に基づいて当該児に対する適切な支援内容や方法等について、担任の先生や保護者へ助言するのが主で、例年5月以降に派遣申請を受け付けるそうである。ところが、4月下旬になって急遽、特例的な派遣申請があり、私は市内の小学校と中学校の2校へ出向くことになった。中学校では入学早々の1年生の男子生徒が、学校行事や授業等への参加を拒否して活動場所から逃走する事態になっていた。年度初めから教育困難な情況に陥った学校側からの派遣申請で、今後、学校体制での対応策を講じる必要がある事案になりそうである。

 

 ところで、昨年度からこのような派遣申請を受けて久し振りに学校現場を訪れ、当該児のいる授業を参観するようになって、改めて学校現場のあり方について強く感じたことがある。それは、日本の学校は今でも基本的に「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、同質性の高い学年学級制の中で、出来合いの問いと答えを勉強する」というシステムを続けている現実があるということ。「そんなこと、当たり前じゃないか!」と叱られそうだが、今までに出会った何らかの「困り感」のある子どもの学習実態等を踏まえても、上述のような学校教育のシステムを改革・改善すべきではないかという感を強く意識するようになったのである。

 

 そんなことを考えていた時、私のTwitterのタイムラインに興味ある本が紹介されているツイートを見つけた。哲学者で教育学者の苫野一徳氏が、この2月に『学問としての教育学』という新刊書を出版したとのこと。同氏は本書を約8年以上前から構想していたらしい。私は今までに機会を得ては、公教育に関する同氏の著書群『どのような教育が「よい」教育か』『教育の力』『「学校」をつくり直す』等を読んできたので、すぐにこれらの著書で主張していたことを学問的な体系へ再構築したものではないかと直感し、早速読んでみた。予想した通りの本であった。

 そこで今回は、本書の中核的な内容である「教育学のメタ理論体系について」の概要をまとめた上で、いつものように私なりの簡潔な所感を付け加えてみたいと考えている。

 

 まず、<はじめに 教育学を〝役立たせる〟>の中で著者は、教育学は誕生以来、二流学問だと言われ続けてきたが、本来は非常に高度な総合学問であり、役に立つ応用学問でもあり得るはずだという確信があったと語っている。この確信に基づいて、教育学に現象学という哲学的土台を敷き、科学性を担保した上で、実践に役立つ理論や方法をいかに開発するかを明らかにすることで「学問としての教育学」を作り上げる、それが本書を書いた目的だと明確に示している。

 

 もう少し具体的に言えば、教育学は教育とは何か、それはどうあれば「よい」と言い得るかという哲学的探究をまず底に敷き、その上で、そのような教育はいかに可能かを、実証的・実践的に探究していくことが必要だということ。だとすれば、このような観点から、教育学の三部門である「哲学部門」「実証部門」「実践部門」が構成されることになり、それぞれ次のような課題が設定されると著者は言っている。

〇「哲学部門」(教育哲学)を、教育の本質解明を可能にするものとして鍛え上げること。

〇「実証部門」を、この哲学に支えられた上で、十分な科学的妥当性と科学的価値をもったものとして鍛え上げること。

〇「実践部門」を、様々な教育現場に〝役に立つ〟実践理論や具体的な実践方法を構築・開発し得るものとして鍛え上げること。

 

 次に、<第1章 教育学の根本問題>では、改めて本書の目的を、教育の本質およびその「正当性」の原理-「公教育=教育学の構想指針原理」-をもとに、「学問としての教育学」を体系化することであり、それは「教育学のメタ理論体系」を作り上げることであるとも語っている。ここでいう「メタ理論」とは、様々な個別理論をより上位で包括する理論のことであり、実業家で人間科学博士でもある西條剛央氏の比喩でいうと、個別理論がコンピュータのソフトであるとするなら、メタ理論はそれを有効に動かすためのOSになる。そして、「メタ理論体系」とは、教育学の三部門における各メタ理論を明らかにし、それら相互の原理的関係もまた明示した「体系」を意味するものである。

 

 具体的な三部門のメタ理論とその体系化した内容およびその解説については、<第2章  メタ理論Ⅰ 哲学部門―「よい」教育とは何か><第3章 メタ理論Ⅱ 実証部門―教育はいかに「科学」たりうるか><第4章 メタ理論Ⅲ 実践部門-有効な実践理論・方法をいかに開発するか>そして<第5章 教育学のメタ理論体系とその展開>に詳しく論じられているので、ぜひ未読の読者は本書を手にして確認してほしい。ただし、この中の「メタ理論Ⅰ」(哲学部門)に関する内容は、当ブログの以前(2019.8.10/同年8.14/同年8.18付け)の記事で基本的な内容を取り上げているので、ここでは本書の結論的な内容を次に挙げておきたい。

 

(1)「現象学=欲望論的アプローチ」により、(2)公教育の本質は、「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」として、またその政策の正当性は<一般福祉>の原理として定位される。(公教育=教育学の構想指針原理)

 

 この「メタ理論Ⅰ」(哲学部門)は、「実証部門」にとっても「実践部門」にとっても「メタ理論」になる。その理由は、それぞれの実証・実践研究は、そもそも何のために、何を目指して行えばよいかについての指針を提供するものだからである。したがって、この内容について十分に理解し、納得することができるかどうかが、「教育学のメタ理論体系」の整合的・協働的関係を把握する上で不可欠である。特に(1)の「現象学=欲望論的アプローチ」のもつ哲学的な意味と意義は、ぜひ多くの人々に知ってほしいと私は念願している。とは言っても、私自身が十分に理解をしているとは言い難いので、偉そうなことは言えないが…。

 

 最後になったが、著者自身が様々な研究者と協働して行いたいと考えている研究の一つ「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」の理論について。この理論は、著者が本書で示した「教育学のメタ理論体系」を土台として「実証部門」および「実践部門」においてより精緻化したいものとして提案したものである。著者による別の言い方をすれば、「公教育=教育学の構想指針原理」を踏まえた上で、デューイ以来の新教育の理論や学習科学等の研究、また国内外の先進的な実践の蓄積をもとにその本質をまとめ直したものである。この実践理論の効果の「実証」や、より具体的な実践方法の開発は今後の課題になっているが、私は本市でもこの課題に果敢に挑んでほしいと希望している。そうすれば、本市における公教育の実質を「よりよく」することができ、結果的に何らの「困り感」のある子どもはもちろん、全ての子どもたちの育ちと学びを「より豊か」にすることができるであろう。