5月2日(月)を年休にしたので、私のゴールデンウィークは4月29日(金)から5月5日(木)までの7日間だった。その間、二女と孫Mが一泊したり、長女と孫Hが日中遊びに来たりしたので、久し振りに二人の孫たちとじっくりと関わる時間が取れた。満1歳2か月になったMとは、抱っこして自宅周辺を散歩に連れ出したり、自宅2階の和室や寝室の中を探検させたりして遊んだ。屋内で伝え歩きをしているMを見守りながら一緒に遊んでいる時、初めて2・3歩一人歩きをした姿を目の当たりにして、感激してしまうことがあった。満5歳2か月になったHとは、自宅近くの川沿いにある公園に行き、広い河原を歩いて水面をスイスイ進むアメンボを一緒に観察したり、石で水切りをして遊んだりしたが、その時のHの爛々とした瞳を見て、私までウキウキした気持ちになった。また、グローブを着けて子ども用の硬式ボールで、初めてHとキャッチボールをした時は、念願だった夢の一つを果たすことができて、私は楽しくして楽しくて仕方なかった。本当に充実した時間だった。
こんな「充実感」に満ちたゴールデンウィークを過ごしていた私だが、他にも「充実感」を味わう時間をもつことができた。それは、遅ればせながら「100de名著」の4月号のテキストを読み、録画番組を視聴して学習することができたこと。4月はハイデッガー著『存在と時間』が取り上げられていたので、ぜひ目を通しておきかったのである。4回に分けられた番組構成に従って、まず当該箇所のテキストを読み、次にそれを確認するために番組を視聴していった。講師の関西外国語大学准教授の戸谷洋志氏は弱冠34歳の新進気鋭の哲学者だが、ハイデガー哲学のポイントを的確に押さえた解説はとても分かりやすいものだったので、視聴後の私の頭はすっきり整理されていた感じになった。
そこで今回は、当番組の中でも私が特に強く共感した第3回の放送分から、自分らしい生き方を探り出すために求められる「先駆的な決意性」について、そのテキストで述べられている内容の概要をまとめ、それに対する私なりの簡潔な所感を付け足してみようと思う。
マルティン・ハイデガーは、日常において現存在(人間のこと)は「世間」やその時その場の「空気」に合わせて、「みんな」が正しいと思うものに従い、行動しているととらえた。そして、このように自分自身ではないものから自分を理解している場合を「非本来性」と呼び、その生き方を特徴づけている「世間話」「好奇心」「曖昧さ」の三つの要素をまとめて「頽落」と称して、これは責任ある主体の生き方ではないと主張した。そこで、彼はどうすれば現存在がこの状態を乗り越え、自分を自分自身として理解して責任ある生き方をしようとする「本来性」を取り戻すことができるのかと考えたのである。
彼は、現存在が「頽落」する最大の理由を問い、「空気」を読んで他者に同調することを止め、自分一人の力で人生を拓いていこうとすれば、たちまち「不安」に襲われ、その闇の中に取り残されるからだと考えた。つまり、現存在が非本来的になるのは、「不安」を安易に解消するために本来の自分自身から逃れることが原因なのである。しかし、そのことは現存在にとっていつも心地よいことかと言えば、そうではない。そこで、現存在が「本来性」を取り戻すためにどうすればよいかという問いの答えとして彼が示したのは、人間の「死」と「良心」だった。
現存在が世間に迎合している時、「私」は他の誰とでも交換可能な存在になっており、何者でもなくなっている。しかし、「死」はそんな風に「みんな」に紛れて生き続けることを不可能にする。自分が死ぬということは、誰とも交換することができないのである。したがって、私たち現存在は自分の「死」に向き合うことを通じて、初めて自分を「唯一無二の存在」として理解することになる。彼は、ここに現存在が「本来性」を取り戻していくための一つの手掛かりを見出したのである。
まず彼は、現存在が「死」に向き合っている時、それが実は、別でもあり得た一つの可能性に過ぎなかったと気付くことができると考えた。つまり、この意味で「死」の可能性に向き合うことは、生きることについて考えることなのである。そして彼は、現存在が「死」の可能性に直面することを「先駆」と呼び、いつ、いかなる瞬間においても「死」を迎え得るという意味において、現存在を「死に臨む存在」とも呼んでいる。例えば、今、この場に隕石が落下して突然死んでしまうかもしれないし、急な心臓発作を起こして急死してしまうかもしれない。この厳然たる事実を直視する時、私たちは自分自身の可能性から自分自身の人生を歩めるのではないか。彼はそう考えたのである。
しかし、自分自身と向き合うことは「不安」を呼び起こしてしまう。だから、簡単に「先駆」できるわけではないので、それに伴う「不安」に対して何らかの特別な態度を取る必要がある。そこで、その鍵として次に彼が示したのが「良心の呼び声」なのである。一般に「良心」とは、一つ一つの行為に対して「私には別のこともできたはずだ」と私自身に迫るものであるが、彼のいう「良心の呼び声」とは、「私」の存在のあり方や生き方に対して「私には別の生き方もできたはずだ」「私は別の存在でもあり得たはずだ」ということを気付かせるものである。ただし、「良心の呼び声」は、具体的な手掛かりは何も語ってくれない。それは「本来的な自己」から「非本来的な自己」に対する「沈黙」の呼び掛けであり、「私」の内側から「おい」と声を掛けて覚醒させるだけのものである。
さらに、彼はこの「良心の呼び声」というのはどんな時でも絶え間なく「私」に対して発し続けられていると考えた。だから、ずっと部屋にかかっているBGMのような「良心の呼び声」に対して、現存在は無視続けるのか、それともそれに耳を傾けるのかを自ら選んでいると言える。ただぼんやりとしていては、聞こえてこない。それが聞こえるようになるためには、「良心の呼び声」に耳を傾けることを自分で決意しなくてはならないのである。彼は、現存在によるこの選択を「決意性」と名付けた。彼のいうこの「決意性」は、狭まっていた視野を解き放ち、それまで「これしかない」と思っていたもの以外の、様々な選択肢や可能性が見えてくることを示しているのである。
以上のように、ハイデガーは『存在と時間』において、現存在がどのようにして「非本来性」から「本来性」を導き出すのかを、「死」からは「先駆」、「良心」からは「決意性」というものを引き出して一体的に説明している。そして、この「先駆」と「決意性」が一体となった現存在のあり方を、「先駆的な決意性」と呼び、これこそ現存在が自分らしい生き方を探し出していく時の生き方なのだと主張したのである。ただし、ここでいう自分らしい生き方とは、単に人と違う生き方をしようとすることだけを意味するのではなく、未来の自分の人生と共に過去の自分の人生も含めた上で、「自分の人生を、自分の人生として責任をもって引き受ける」という生き方のことである。
このような「先駆的な決意性」という現存在のあり方について、私は30代前半で自覚するようになり自律的に生きることができるようになったと思っているが、今回の学習によって改めて自分のこれからの人生においてもより意識していくことが大切だと強く感じた。それは、自分自身が高齢になり残された時間が少なくなっていることも作用していると思うが、何よりも今回のロシアによるウクライナへの武力侵攻によって多くの一般市民たちがかけがえのない一回きりの生命や人生を理不尽に奪われている現実を目の当たりにしたことも大きく影響していると感じる。今、平和が守られている日本という国で現に生きていて、孫たちと一緒に遊び、彼らの成長を見守りながらその発達を促すように関わっていることを、「先駆的な決意性」の具体的な営みとして意識的に受け止めていきたいと考えている。それがまた、私にとっての「世代間倫理」の具現化を意味しているのだから…。