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「未来への責任」を問う倫理学の理論的基盤の一つ「哲学的生命論」について~戸谷洋志著『ハンス・ヨナスの哲学』から学ぶ①~

 マルティン・ハイデガー著『存在と時間』を取り上げた4月の「100de名著」の番組の中で、指南役の戸谷洋志氏が「ハンス・ヨナス」という哲学者の業績等について解説しているのを視聴して、私は彼のことを初めて知った。師であるハイデガーから多大な影響を受けながらも、ナチスに加担したハイデガーとの対決を試み、これを克服しようと自らの独自な哲学を打ち立てた大陸系哲学者であり、応用倫理の論客でもあった「ハンス・ヨナス」。私は彼の哲学の中身について強い興味をもった。私は市内の大型書店へ出向き、戸谷氏の著書『ハンス・ヨナスの哲学』を入手して、早速読み始めた。本書は、著者が未来倫理を中心としながら彼の哲学を再構成したものであり、上述したような彼の両面性に留意しながらも、それらを同時に視野に収めることができるような一つの統合的なヨナス像を提示しており、私のような初心者向きのヨナスの入門書となっている。

 「はじめに」の中で著者は、本書を執筆する上で二つの制約を引き受けざるを得なかったと述べている。一つは、ヨナスの哲学の全体的な把握に寄与する手がかりを提供するために、彼の著作を時系列で辿ることを諦めたこと。もう一つは、彼の未来倫理を中心に据えるために、彼の全ての思想が未来倫理との関連のもとに配置され、そうした連関が比較的乏しいテーマについては周縁に置かれてしまったこと。しかし、このような制約のもとに上梓された本書であるが、複雑に入り組んだ彼の言葉を読み解きながら一つの思考の手がかりを提供すること、それによって、ヨナスの眼を借りながら、留まることのない科学技術文明の激動を、未来への責任を、世界を、新しい光のもとで眺める可能性を開くことを目指したと、著者はその思いを語っている。

 

 私はその後に続く本論の内容に対してさらに知的興味をそそられ、連日、夜間の短い時間を利用して読み継いでいった。そして、先日やっと読了したのであるが、私の頭の中は新しい用語や概念等が溢れかえり、しばらく茫然としてしまった。それで本書を再読しながらヨナスの「未来への責任」の倫理学の概要をブログの記事にまとめるという作業を通して、何とか私なりにもう少し消化したいと考えた。ただし、ヨナスの倫理学の理路はなかなか複雑に入り組んでいるので、その全貌について大胆に要約するのは難しい。そこで、私の能力で可能な方法として、まず「未来への責任」の倫理学の理論的基盤である「哲学的生命論」と「哲学的人間学」の2つの内容の概要について、それぞれ分けてまとめる。次に、「未来への責任」の倫理学に関する内容の概要について総括的にまとめるという方法を考えた。したがって、今回の記事は「哲学的生命論」の内容の概要についてまとめたいと思う。

 

 さて、科学技術文明においては、遺伝子工学の実例を見れば分かるように、現在の世代が自分の欲望を満たそうとすれば、「どこかで、未来で、莫大な数の生命に容赦なく悪影響を及ぼしてしまう」。そうした事態を回避するために、科学技術文明の倫理学は必然的に「未来への責任」を含まなければならないが、それは従来の倫理学においては真剣に考慮されることのないテーマだった。なぜなら、伝統的な倫理学において、人間の行為は常に同時代の人間だけに関わるものと想定され、行為の時空間は現在に限定されていたからである。だからこそ、こうした前提に囚われることのない、全く新しい倫理学を構築していくことが必要なのだと、ヨナスは考えた。

 

 そのために、「未来への責任」を倫理学的に基礎づけるべく、未来の他者との同意を得ることなく正当化するということ、言い換えれば、「未来への責任」は未来の他者が存在することは善いことであるから正当化されるという道筋を立てることに解決の糸口を見つけた。しかし、現在の科学技術文明は没価値的な存在論を前提としている。そこでヨスナはその前提を刷新し、そのうちに善を見出すことが可能な存在の概念を構築するという方法を選ぶのである。これこそが、生命をあるがままの姿で、死んだ物質ではなく、あくまでも生命として解明する可能性を究明した「哲学的生命論」の試みに他ならないのである。

 

 「哲学的生命論」の構想は、生命を生命として理解するために、「有機体」と「精神」とを統合的にとらえるという仮説に基づいている。そして、この仮説のもとに考察を進めていくために、ヨナスは「批判的分析と現象学的記述」という方法を採用した。「現象学的記述」とは、事象を立ち現れるままに捉えようとする哲学の方法論で、フッサールによって提唱されたものであり、その前提には私たち自身が生命であり、あくまで肉体として存在しているという事実に注目する。その理由は、私たちがすでに生きているという経験をしているからこそ、私たちは死んでいるのではなく生きていることの意味を理解することができると考えたからである。したがって、「現象学的記述」は科学的分析とは異なり、私自身が生きているという経験を根拠にした生命の理解と言える。そして、このような知見を手がかりにしながら、生命の存在の意味を検討するのが「批判的分析」に他ならない。

 

 ヨナスは生命の現象的記述を始めるに当たり、ある存在を構成している物質を意味する「質料」と、そのまとまりの形を意味する「形相」という概念を導入し、生命の質料と形相の間には、「代謝」によって質料が絶え間なく変化していくことにより、はじめて形相が維持されるという構造があることを示して、そこに生命の本質があることを見出した。この生命は質料の同一性から自由でありながら、同時に質料の「利用可能性に依存」しているのであり、言い換えれば質料に「困窮」し続けるというあり方(この概念を「困窮する自由」と呼ぶ)こそが生命の本質であると言え、これがヨナスの「哲学的生命論」の中心的な命題になるのである。

 

 ところで、ヨナスは「代謝」概念から生命の存在を構成する様々な側面について論じている。例えば、「代謝」という身体の機能から生命の内と外が区別されるという前提に基づき、「自己」という概念を説明している。そこでは、意識不明の状態にある人間でも、「代謝」が機能している限り、その人は「自己」を維持し続けているととらえる一方、「代謝」さえしていればそこに「自己」は芽生えているのだから、人間に限らず全ての生命が「自己」を有するととらえることになる。そのためヨナスは、植物やアメーバなどの生物まで「自己」を認め、最も原始的なものであっても「精神」的であり、最も高等なものであっても「有機体」にとどまるという、「哲学的生命論」の仮説を説明していくのである。

 

 このように「自己」を「代謝」との関連から説明することは、「自己」と外界との絶え間ない関係を必要とし、環境に組み込まれたものとして理解することを可能にする。この、生命にとって異質でありながら、生命が自らの拠り所としなければならない場として開かれた外界をヨナスは「世界」と呼び、その両義性に注目して「困窮する自由」の動的な性格と密接に結びついていることを示している。生命は「世界」に還元されない意味で「世界」から自由であるが、「世界」がなければ存在できないという意味で、「世界」に困窮しているのである。このことから分かるように、ヨナスは「自己」と「代謝」の相関関係を「世界」と「代謝」との間にも見出すのである。「世界」は生命が「代謝」の働きを通じて作り上げる場に他ならず、あくまでも生命の「代謝」によって構成されるのである。

 

 さらに、「代謝」はこのような空間的な次元だけでなく、時間的な次元をも持っている。「代謝」が質料の交換であり、その交換を継続することで生命が維持されている以上、生命は「次」という時間へと開かれており、つまり未来へと開かれていなければならない。例えば、生命が呼吸するのは、これから訪れる次の瞬間を生きるためである。ヨナスは、ここに生命の「目的論的性格」を見出している。

 

 最後に、「代謝」は常に停止の可能性を持っていることから、生命は常に「死」の脅威に晒されている存在であることに注目する。このことは何を意味するかというと、生命は常に「死」の危険にさらされており、存在するか死ぬかをその度ごとに選択しているということである。その意味で、生命にとって存在は単に所与ではなく、選択によって獲得させたものであり、「強調された意味」を持っている。このような有意味な存在としての生命を、ヨナスは「現存在」と呼んだ。そして、生命を存続する働きを持つ反面、死をも可能にする「代謝」という矛盾を生きることが生命の本質だと考えたのである。

 

 以上、ヨナスの提唱した「哲学的生命論」の仮説に基づきながら、生命の本質を「困窮する自由」という概念として説明している内容の概要を舌足らずな表現でまとめてみた。しかし、植物、動物、人間などのあらゆる生物種が全く同程度の自由を持つわけではない。この点、ヨナスは進化論を念頭に置き、生物種の進化の系譜の中で自由は漸次的に増大していくものだと考えている。生命の進化は、自由の増大であり、死の可能性の増大であり、そして自己意識の先鋭化の過程である。そして、このような意味での進化の頂点にいるものが、人間に他ならない。では、人間にとって自由が何を意味するのか。次回は、この課題に対して本書で解説しているヨナスの「哲学的人間学」の内容概要をまとめてみようと考えている。なかなか要領よくまとめることはできないかもしれないが…。