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「未来への責任」を問う倫理学のもう一つの理論的基盤「哲学的人間学」について~戸谷洋志著『ハンス・ヨナスの哲学』から学ぶ②~

 前回に続いて、「ハンス・ヨナス」が構築した「未来への責任」を問う倫理学の理論的基盤について綴ってみたい。前回はその一つ「哲学的生命論」の内容の概要をまとめてみたが、今回はもう一つの「哲学的人間学」の内容について、『ハンス・ヨナスの哲学』(戸谷洋志著)を再読しながら、その概要をまとめてみようと思う。前回も書いたように、ヨナスの理路はなかなか複雑なので正確に理解するのは難しいのだが、私なりに消化したレベルで要約していくしかない。この点、くれぐれもご容赦願いたい。

 

 さて、ヨナスは生命の進化のプロセスを、自由が増大していく過程として解釈し、人間を最も自由な生物種として説明しようとする。これが彼の「哲学的人間学」の基本的な発想である。彼は人間とその他の動物の本質的な違いを明らかにするためにある思考実験を行い、その結果に基づいて人間の条件を「像を描く」という能力のうちに見出す。その理由は、「像を描く」能力は無益であり、役に立たないからである。つまり、人間を動物から隔てる本質とは有益性からの自由だと彼は考えたのである。ヨスナはこのような人間観を、ラテン語で「描く人」を意味する「ホモ・ピクトル」と呼んでいる。

 

 では、「像を描く」ということは、どのような形で自由を発揮することになるのか。彼は人間に固有の自由のあり方を突き止めるために、まず「像」という概念が成り立つには「像」と「像として描かれた対象」の区別があることを指摘する。そして、この二つにおいては類似の完全性がない。このことは、より自由な表現の可能性を開くことを意味する。つまり人間はモデルが実際に存在するあり方にとらわれることなく、自由な想像力によって豊かに表現を行うことができるのである。このことはまた、一つのモデルから無限に多様な像が描き出されることを含意する。そうなのだ。像はたった一つの像だけが絶対的に真理であるなどということはないのである。ヨナスは、ここに「代謝」の自由から区別される人間の自由の独自な次元が存在すると考えたのである。

 

 ところで、ヨナスは生命の進化を自己の先鋭化の過程ととらえていたが、この「像を描く」自由も何らかの形で自己の先鋭化に関係していると考えた。人間は自分以外の対象だけでなく、自分自身を像として描き出し、自己を客体化することができる。この像こそが「私」に他ならない。ただし、この「私」は「私」を描き出す自己と一致するわけではない。自己客体化は、自己との不一致を構造的に伴うのである。だからこそ、人間は「私」を多様な形で描き出すことができる。この意味において、自己客体化は自分自身を不確定な存在として、多様なあり方をする存在として理解することができるのである。ヨナスはこのような形で、像を描く自由は、人間の自己意識の先鋭化に寄与すると説明したのである。

 

 

 また、世界との関係から自己を客体化するということは、「私」を様々な他の像に包み込まれたものとして想像することを可能にする。その中で彼が決定的に重視するのが「人間像」であり、それを人間の行為や判断を導く規範的な役割を担う「人間という理念」という概念として語っている。ただし、それは一つの像である以上、常に無限の多様性に開かれている。このことは、「人間像」は変化しうるということ、つまり人間には既成の人間像に対して、別の新しい人間像を打ち立てることができるということを意味する。彼はこうした人間像の移り変わりを「歴史」として説明するのである。

 

 さらに、人間像を描き出すということは、人間がそのうちに位置付けられるような、この世界の全体の想像を伴うものである。この営為が宗教や倫理学形而上学等、人間の思想的営為を駆動させていく。そして、この営為によってもたらされる人間像の変移こそが、他の生物種の進化から区別された人間の「歴史」を作っていくと、彼は主張する。言い換えれば、人間像の形成には、存在との自由な出会いの能力が必要であり、その自由が展開される場が「歴史」なのである。彼のこの独自な「歴史」の定義には、人間の普遍的な本質としての自由(人間像を描く能力・存在との出会いの能力)と、その自由によって描き出される無限に多様な人間像という二つの概念構造が示されており、いわゆる進歩史観から一線を画す相対的なものとして性格付けられるのである。

 

 以上のようなヨナスの「哲学的人間学」から導き出される「歴史」の概念は、いかにして過去の理解を可能にしていくのであろうか。その答えを簡潔に言えば、過去を現在に還元するのではなく、現在を生きる人間が過去の人間像と接することによって今を生きているだけでは決して見出されることがなかった可能性が開かれるということである。その理由は、彼の哲学において「人間が普遍的に像を描く自由をもつ」と想定されているからである。彼の「人間は人間像を生きている」という言葉は、別の人間像の可能性を生きると言うことなのである。

 

 最後に改めて確認しておきたいことは、彼の歴史思想が「像」概念をめぐる分析に基づいて形成されているということ。「像」が存在論的な不完全性をもち、常に別の「像」も可能であるという形で描かれているからこそ、「像」には無限の可能性が開かれているのであり、そしてそれらの「像」は全てが等しく真理なのである。こうした「像」の構造に基づく彼の歴史思想は、いずれかの時代の人間像だけか絶対的に真理であるという歴史観を排除するものである。言い換えれば、それは異なる時代の間に優劣があることや、ある特定の時代同士の関係を目的-手段の関係としてとらえることを拒絶するものであり、いわゆる進歩史観を取らないのである。

 

 次回は、前回と今回取り上げたヨナスの「未来への責任」を問う倫理学の理論的な基盤である「哲学的生命論」と「哲学的人間学」の思想を踏まえながら構想した倫理学の全体像についてまとめてみようと考えている。また、私なりに消化するまでに時間がかかりそうなので、しばらく時間をください。