ようこそ!「もしもし雑学通信社」へ

「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

存在と当為を結びつける「責任」という概念について~戸谷洋志著『ハンス・ヨナスの哲学』から学ぶ③~

 いよいよ今回から2回続けて、『ハンス・ヨナスの哲学』(戸谷洋志著)を再読しながら、彼が独自に構築した倫理学の全体像の概要をまとめてみようと思う。ヨナスは、前回までの記事にまとめた「哲学的生命論」と「哲学的人間学」を理論的基盤にして、「未来への責任」を問う倫理学を構築した。それは、現代の科学技術文明において自明視されている没価値(善いとも悪いとも言えない)的な存在論とは異なる、存在と当為(「~するべし」という規範)を接続し得る存在論の可能性を切り開くものであった。そして、彼は存在を根拠とする当為の概念を「責任」と呼んだのである。

 

 そこで今回は、まずヨナスの倫理学におけるキーコンセプトとも言える「責任」という概念について、本書の「第5章 責任について-倫理学Ⅰ」の内容を要約する形でまとめておきたい。

 

 ヨナスは、応答を示唆する概念である「責任」が成立するためには、応答をするもの(責任の対象)と、応答するもの(責任の主体)という2つの要素が揃っていないといけないと考えた。では、どのような存在がその要素としての条件を満たすのか。まず責任の対象たり得る存在は、何らかの絶対的な価値=善を現実化することを要求し、その要求を表現する存在であることが求められる。そして、その表現を認識した者(責任の主体)にとって、この善の現実化への要求は一つの当為になる。このようにヨナスは考えたのである。つまり、彼は道徳の本質を近代以降の倫理学のように行為を従う原則(ルール)のうちに見出すのではなく、その行為によって影響を受けることになる存在から説明しようとしたのである。

 

 上述のように、ヨナスによれば責任の対象は善であり、それは自らが現実化することへの要求を表現し、その表現が当為の根拠になる。彼はこの当為を喚起する表現のことを「呼び声」と呼び、善の「呼び声」は「私」を襲い、「私」に応答することを強いると考えた。つまり、「責任」は目の前にいる対象から応答を強いられるような形で喚起される。また、こうした観点から、「責任」とはこの「呼び声」に対して応答するという義務であると考えられる。これこそ、彼が明らかにした責任の形式的な構造なのである。

 

 次に、彼がこの世界において実際に責任の対象になり得るものと考えたのは、「生命」であった。もしも責任の根拠であるような善がこの世界に姿かたちを伴って存在しているのだとしたら、「生命」以外に考えられない。「責任の対象は生命」、これが彼の責任概念の基本的な命題なのである。ただし、生命であれば人間に限定されず、どのような存在でもよい。責任の主体と責任の対象の間に何らかのコミュニケーションが成立している必要はない。彼が考えている責任概念は、民主主義的な意思決定によって交わされるそれとは根本的に違い、非相互的な関係の間でも成立する概念に他ならないのである。

 

 だだし、ヨナスは生命が実際に道徳的配慮を受けるための条件を二つ挙げている。一つは、その生命が「傷つきやすいこと」。もう一つは「私の行為の圏域に入り込んでおり、私の力に晒されているということ」である。言い換えれば、「私」には傷つけられない生命や「私」よりもはるかに強力な生命は、「私」の責任の対象にはならないのである。これらのことから、責任の主体と対象は脅かす/守るものと、脅かされる/守られるものという関係にあると言える。責任の主体は常に強者であり、その対象は常に弱者であり、両者は非相互的な関係にあるだけでなく、同時に不均衡な力関係に置かれていると考えられるのである。

 

 ここまで、責任の対象に関するヨナスの分析について述べてきたが、では、最後に責任概念を構成するもう一つの要素である責任の主体について、彼が考えた内容を簡潔にまとめて今回の記事を締めくくろう。

 

 責任の主体とは責任を負うところの者であり、この主体に特有の能力を彼は「責任能力」と呼んだ。そして、この「責任能力」を「呼び声」に対する「受容の可能性」として解釈した。つまり、それは「呼び声」を聴くことができるという力ということ。また、道徳性をめぐる可能性に開かれているということ。さらに、私的な利害からの自由を前提にしているということでもある。そして、この私的利害からの自由をもつ生命は、人間に限定されると考えた。人間は自分の生命が脅かされている状況においても、他者の「呼び声」に耳を傾けることができるから、人間だけが責任の主体として認められると彼は考えていたのである。

 

    このようにして、ヨナスは責任概念の基本的な構造を明らかにした。しかし、それはかなり抽象的な印象を与える。そこで、かれは今までの議論に直感的な確かさを与えるために、一つの具体例として提示した。それが、「乳飲み子」への責任である。「乳飲み子」は、極めて脆弱な存在であり、放っておいたら死んでしまう存在であるという意味で、責任の対象として最も代表的な存在である。それゆえ、「乳飲み子」は周囲に対して「呼び声」を発し、「私」はその「呼び声」を聴いた時、その「乳飲み子」に対して責任を負う。つまり、「乳飲み子」の存在自体が善いものであるから、「私」は保護をするのである。しかし、その行為は自分にとってデメリットがある場合もある。それにもかかわらず、その「乳飲み子」を守ろうとする時にこそ、人間は自らの私的利害を超えた自由を、つまり「責任能力」を発揮することになる。ヨナスは、こうした「乳飲み子」への責任をあらゆる責任の原型として位置付けているのである。

 

 次回は、この「責任概念」を応用する時、ヨナスは「未来世代への責任」をどのように説明しているかをまとめようと思う。また、しばらくの時間的猶予をいただきたい。