なかなか筆が進まない。つくづく自分の理解力と文章力の乏しさを痛感する。しかし、老年を迎えて認知機能の衰えを少しでも遅らせようと始めたブログ記事の執筆。自分の課題意識に即して読んだ(インプットした)本を取り上げ、その内容概要や読後所感等を綴っていく(アウトプットをする)雑学スタイルを基本にすると決めた初心を忘れず、何とかここまで足掛け5年にわたって続けてきたので、今さら根を上げてしまうのは情けない。週5日でフルタイムの勤務をしながらの読書とブログ記事の執筆は、たとえ趣味の領域といっても高齢者の仲間入りしている身では時間的・体力的にキツイ。しかし、カメの如き歩みであっても続けていきたいと思っている。…何だが、遅筆の言い訳じみた書き出しで駄文を弄してしまった。トホホホ…
さて今回は、『ハンス・ヨナスの哲学』(戸谷洋志著)から学ぶシリーズの最終回(第4回)である。ヨナスが構築した「未来への責任」を問う倫理学の全体像について、本書の「第6章 未来への責任について 倫理学Ⅱ」の内容を要約しながら素描してみようと考えている。なかなか要領を得ない要約になってしまうかもしれないが、これも我が身のためだと思い自分なりの能力レベルで綴っていこうと思っているので、ご容赦願いたい。
前回までにまとめた内容のポイントを簡単に確認しておこう。未来世代への責任を説明するためには、伝統的な倫理学の概念ではなく新たな「責任概念」の基礎づけが必要だと、ヨナスは考えた。そのわけは、今ここに存在しない者への責任を説明しないといけないからである。そして、この説明が可能な理屈として、未来世代の存在そのものが善いからと考え、それに先立って存在と当為を結びつけることができる存在論を「哲学的生命論」から説明することを試みた。その結果、「責任概念」が責任の主体と対象という2つの要素から成り立っており、前者が人間、後者が生命として特徴づけられるという知見を得たのである。
ここで改めて考えてみると、責任が成り立つためにはそこに人間が存在しなければならないことになる。なぜなら、責任の主体になれるのは人間だからである。この責任の主体=人間の等式が成り立つ限り、責任の可能性=人類の存続可能性という等式も成り立つことになる。つまり、人類の存続は、責任が成立するための可能性の条件なのであり、単に人類という生物種に対する責任であるだけでなく、「責任の可能性の責任」になるのである。このことは、人間という責任の主体が存在しなくなれば、責任という現象そのものが成立しなくなるということ。また、責任が成立する時には、同時にその可能性の条件としての人類の存続への責任も課せられているということを意味しているのである。
では、上述した人類の存続への責任の基礎づけから、ヨナスはどのように「未来世代への責任」を基礎づけたのであろうか。簡潔に言えば、彼は未来世代を直接的に責任の対象にするのではなく、「責任概念」の論理的な要請として人類の存続への責任を導き出し、その責任を実現するための具体的な実践として、未来世代への責任を基礎づけたのである。そして、この基礎づけを「ある特定の責任の義務、つまり人間の未来に対する責任の義務を、責任という現象それ自身から形而上学的に演繹する」ものとして提示し、それを「形而上学的演繹」と名づけた。
ヨナスによるこの基礎づけの最大の特徴は、その責任があくまでも責任の可能性の存続という観点から説明されているということである。最も重要なのは、この世界に責任の可能性が開かれ続けていることであり、そのために責任能力をもった主体が存続し続けること。したがって、人類の存続への責任とは、人間があくまで責任の主体として、責任能力を保持した生き物として、いわば「人間らしく」存在することを義務づけるのである。だからこそ、未来世代への責任として、現在世代が配慮すべきことは、未来世代が責任の主体として存在できるようにすること。そして、責任能力に求められる自由を失わないでいることなのだ。
では、未来世代が自由であることへの責任とは、どのような自由に対する責任なのであろうか。ここで重要なのは、「哲学的人間学」である。ヨナスは、人間の本質を「像を描く」自由として性格づけ、それによって自分自身を反省する能力の内に見出していた。ここ言う反省とは、この世界と自分の関係を、そしてこの世界において自分がどこに位置づけられるのかを理解しようとすることである。そこで不可欠の役割を果たすのが、「人間像」という概念。人間は、「人間像」を介することによって、自分自身への理解を深めることができる。ただし、「人間像」は像がそうであるように無限に多様であって、そのどれか一つが真理であると考えることはできないのである。つまり、反省は無限の多様性に開かれており、人間の自己理解を制約するものは何もない。したがって、未来世代が自由であることへの責任とは、未来世代もまたこうした無限の可能性へと開かれていることへの責任と理解できるのである。
以上が、ヨナスが構築した「未来への責任」を問う倫理学の全体像の素描である。彼は、「哲学的生命論」と「哲学的人間学」を理論的前提とし、それらを応用することによって「形而上学的演繹」という論証を提示している。著者の戸谷氏は「それが彼の未来倫理に、単なる科学技術文明への対症療法を超えた、哲学的な深さと奥行きを与えている。」と高く評価している。テクノロジーの課題に取り組むためには、存在、生命、人間といった、より根源的な問いと向かい合わなければならないのである。私もここ4回の『ハンス・ヨナスの哲学』(戸谷洋志著)から学ぶシリーズの記事を綴りながら、同様の感想をもった。本書は、この後、ヨナスの未来倫理における「神」の問題も考えた論考が所収されているが、この点については私自身の課題意識が希薄なために、その概要をまとめることは私の能力では難しいので割愛する。
最後に、著者は「おわりに」において、気候変動問題やそれに関連する「SDGs」(持続可能な開発目標)の話題を取り上げて、「人新世を生きる私たちだからこそ、自然と人間の関係を問い直し、ここから未来世代への責任を基礎づけたヨナスの哲学は、読み直されるに値する」と、彼の哲学・倫理学の今日的意義を強く訴えている。私は以前に当ブログの記事(2021.2.7付)で、『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著)を取り上げて、資本主義の下での経済成長を前提として豊かな生活を続けながら「SDGs」による取組を実践しても、それは一時しのぎのアリバイ作りにしかならず、人新世において「気候変動による地球環境の破壊⇒人類の滅亡」は一層進むことになるという著者の主張を紹介した。今でも、私はこの主張内容には首肯するのだが、その前提として「自然と人間の関係」について深く考えることが必要だと、ヨナスの哲学・倫理学について学びながら思った。そういう意味で、多くの市民にとって本書は必読の書だと強く感じた。