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「食べる」ことについてちょっと考えた~吉村萬壱著『生きていくうえで、かけがえのないこと』を読んで~

 『生きていくうえで、かけがえのないこと』という本を当ブログの以前の記事(2021.8.19付)で取り上げたことがある。ただし、その時の著者は批評家の「若松英輔」氏であったが、今回は芥川賞作家の「吉村萬壱」氏である。なぜ二人が同じタイトルの著書を発刊したかというと、亜紀書房ウェブマガジン「あき地」の中の「生きていくうえで、かけがえのないこと」という連載を二人が担当し、それぞれ10個(計20個)の動詞を選んで同じテーマでエッセイを執筆したものが元になっているからである。前回は同タイトルの若松氏のエッセイ集を読んだのだが、その際は吉村氏のものは読まなかった。私は「吉村萬壱」という小説家が芥川賞を受賞したことぐらいは知っていたが、まだ彼の作品を読んだことがなかったので身近に感じていなかったのである。

 今回、市立中央図書館でたまたま見つけて、『俳句と人間』(長谷川櫂著)と共に借りてみた。そして、一気に読み通した。「あき地」に連載された20編に、新たに書き下ろした5編を加えた彼のエッセイは、鋭い感性と豊かな知性、そして飾らない人柄を感じさせるものだった。私は久し振りに珠玉のエッセイ集に出合った気分を味わうことができた。そこで、今回はその中から「食べる」という動詞をテーマにしたエッセイを取り上げて、私なりに考えたことを綴ってみようと思う。

 

 著者は「食べる」というエッセイの中で、自分は空腹に対する耐性は弱いが、食べることへの関心が低いまま大人になったと書いている。私もやはり空腹には弱く、少しでも空腹感を覚えたら、食事の時間までそれを耐えることが大変辛くなる。そうは言っても、勤務中は当然それを満たすことは我慢するが、帰宅後は夕食前でもつい駄菓子を口の中に放り込んでしまう。肥満、引いては糖尿病等にならないように食生活には注意しなければならないので、間食はよくないと頭では分かっていながら、好物の「おかき」とか「芋菓子」などをつい食べてしまうことがある。少量にするように気を付けてはいるが、この食習慣は止めなければ…。

 

 ところで、私の唇の右上には小さなほくろが一つあり、小さい頃にある人から「その口元のほくろは、一生食べ物には困らない印だよ」と言われたことがある。それ以来、私は何の根拠もないその言葉を信じてきた。だからという訳ではないが、今までの人生を振り返ってみれば、日々の生活において基本的にひもじい思いをした覚えはない。もちろん決して贅沢な食事ではなく人並みのものであったが、それだけでも有難いことである。長じて公立学校の教員になり、職場の歓送迎会や忘年会等の恒例の宴会に出たり、たまに出張先で同僚と外食をしたりする機会が増え、多少贅沢な食事の味を覚えてきたが、それでも高価な食事にはあまり興味は起きなかった。元来、私は食に対して保守的なのである。でも、これは私の貧乏性の性格から来ているのかもしれないが、質素な食事でも空腹が満たされるなら、それで十分だと思っている。

 

 著者は、人類は常に餓死に苦しみ続けて来て、現代においても飢餓は常態であり、世界の半分が飢えていると指摘している。また、食糧は限られていて、その配分は世界の中で大きく偏っているという事実を述べている。さらに、私は現在の世界の食糧事情について思いを馳せる…。今、ロシアによる長期的な軍事侵攻により、小麦の世界的出産地であるウクライナからの発展途上国への輸出が滞っており、世界的な食糧危機が起きている。日本においてもその影響をもろに受けて小麦価格が高騰して、小麦を原料とするパンや麺類等の食品の値上がりも相次いでいる。経済のグローバル化現象は、食糧危機問題を起こす要因として大きな比重を占めていることを実感する。このような現状を鑑みれば、「美味いとか不味いとかの前に、まず飢えないこと、という重要な前提がある。その前提を忘れた時、我々は再び飢えの時代を迎えるに違いない。」という著者の言葉は、今まさに意識すべきことである。

 

 私の二人の男の孫たち(満5歳のHと満1歳のM)は、今のところ食物アレルギーはなく、何でもよく食べる。食に対する意欲は旺盛なようなので、一安心。昨日、都合により長女の代わりにHを保育園に迎えに行き、夕食をじじばば宅で食べさせることになった。Hは、妻の用意した夕食をぺろりと平らげ、デザートのスイカも大喜びで食した。Hが美味しそうに食事をしている姿を見ると、それだけで私たちじじばばはつい頬が緩んでしまう。「このまま健やかに成長してほしい」という一心である。生命は尊い、特に幼く若い生命は未来を担う宝物である。この子たちがせめてひもじい思いをするような社会や時代にしてはならない。私は「食べる」ことについて考えながら、改めて大人の責任、国家の指導者の責任、政治の責任の重大さを感じざるを得なかった。