8月13日(土)に新型コロナウイルスの陽性判定を受けた。前日の夕方から発熱し夜には38.2度まで上がってしまったため、24時間対応の受信相談センターへ架電した。その際に紹介された市内のある耳鼻咽喉科での抗原検査の結果である。覚悟はしていた。というのも、職場で私の斜め前に座っている同僚の女性が11日(木)に陽性が判明したことを聞いていたので、「もしや」と思っていたのである。
私もその同僚の女性も10日(水)には終日、事務所内で勤務していた。私は定義上の「濃厚接触者」には該当していなかったが、昼食時に默食していたとはいえ、当然お互いにマスクを外していた。室内に置かれた一つの扇風機の風上にその女性が、風下に私が座っていたのだから、その時に私が飛沫感染する可能性は0ではないと思っていた。もちろん私の感染原因がそれで特定できる訳ではない。私は勤務中にトイレにも立ったし、昼食の弁当を配達してきた店員とも接触したので、それらの機会に接触感染をしたかもしれない。しかし、私が陽性と判定された時に、ぱっと頭に浮かんだのが先の昼食時の場面だったのである。
私がまだ高熱のまま自宅療養していた時、「食事中に自分がもっと慎重に感染予防していたら…」とか「体調を崩しかけていた同僚の女性に対して早退するように強く助言していたら…」とかと悔やんでいた。感染経路がまだ特定されている訳でもないのに…。私は意識が朦朧とする中、自分の勝手な思い込みかもしれないことで気持ちが不安定になっていることに苛立っていた。「これって、精神的エネルギーの無駄な消費ではないか。」現在の苦境の原因を過去の自分の不作為に結び付ることで、私は何らかの気休めを求めていたのだろうか。それなら結果的に逆効果ではなかったのか!
幸い、私は15日(月)の午前中には平熱に下がり、他の症状もほとんどない状態になっていた。それでもまだ自宅療養中であり、濃厚接触者の妻が陽性判定を受けていなかったので、自宅2階の和室での隔離生活を継続しなければならなかった。でも、ほとんど倦怠感もなく、明らかに意識状態も通常に戻っていた。「これって、この1か月ほど多忙な生活を送り心身共に疲れ切っていた私に、神様が与えてくれた“休養”というご褒美なのかもしれない。」私は22日(月)までの自宅療養期間の過ごし方について、自分にとって都合よくとらえようとしていた。「そうだ、休養するならストレスを解消する私の一番の方法である“読書”をしよう。」…
私は療養中の身なのだから、言語の抽象度が高い学術書ではなく、具体性のある豊かな言語で語られる小説の方がよいと判断し、いつか機会があれば読んでみようと思っていた『マチネの終わりに』(平野啓一郎著)を書棚の中から選んだ。
本作品は、40代前の天才クラシックギタリストの蒔野聡史と、国際ジャーナリストの小峰洋子が、彼の「デビュー20周年記念」コンサート最終公演日に偶然出逢ったことから始まる、切なくも美しい珠玉の恋愛小説である。また、物語の展開において、芸術や国際政治・親子関係・良心・生死等のテーマが重層的に描かれており、特に芸術や国際政治等についての一定の教養がなければ、二人の芸術的・政治的なセンスに共感しながら読み進めるのが難しい作品だと思う。それでも私は病床という特別な環境下での読書であったためか、場面の情況をできるだけきちんと把握しながら読み進めることができ、深い感動の内に読み終えた。久し振りに芳醇な香りが漂う高級ワインを味わうような読書ができたのである。
本作品の中で私にとっての一番の箴言は、物語の終盤において洋子の父で映画《幸福の硬貨》の監督、イェルコ・ソリッチが彼女に語った次の言葉であった。「自由意思というのは、未来に対してはなくてはならない希望だ。自分には、何かが出来るはずだと、人間は信じる必要がある。そうだね?しかし洋子、だからこそ、過去に対しては悔恨となる。何か出来たはずではなかったか、と。運命論の方が、慰めになることもある。」この部分を読んだ時、私はハッとした。
私が今回、新型コロナウイルスに感染してしまったことに対して、意識朦朧の中でうじうじと過去の自分の不作為に対して悔やんでいたことを思い出したのである。過去は自分の自由意思で変えることもできたのではないか。つい、近代的な概念でもある「自由意思」を前提としている自分のパラダイム!現在の苦境に繋がると考えられる過去の出来事は、確かに私の「自由意思」が大きく関わっているであろうが、それだけで成り立っている訳ではないだろう。環境や他者との関係性を無視して成立する出来事などはないと思う。だとしたら、現在の苦境の原因を自分の「自由意思」だけの結果と考えすぎて悔恨するのは愚かではないだろうか。むしろ、「運命」だったのだと現在の苦境を受け容れる方が、精神的な慰めになり健康的なのではないだろうか。
もちろん逆に自分の「自由意思」の視点を無視しろと言っているのではない。過去の出来事に関わりをもつであろう「自由意思」の視点をしっかりもつことは、良い意味での反省になり、未来に向けての目当てや目標等を立てるという希望に繋がるであろう。それもまた、健康な精神のあり方である。しかし、それだけに拘泥してしまうのは危険だ。「自由意思」というのは、「近代」が巧みに仕掛けた罠のようなものなのだと思う。取り扱い方には、細心の注意が必要なのだと、再度、洋子の父の言葉と共に私は反芻している。
最後に、自宅療養の臥床にあって本書を読書の対象として選んだ自分の「自由意思」よりも、本書との出合いという「運命」に感謝しつつ、今しばらく疲れ切っている心身の「慰労」に務めたい。