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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

人生は、他者だ!~西川美和著『永い言い訳』を読んで~

 10日間の自宅療養期間が終わって、23日(火)に久し振りに出勤したら、その翌日から当市の教育支援委員会が2日間予定されていた。今回の教育支援委員会は、来年度小学校へ就学する幼児で何らかの「困り感」がある子にとって、どのような学びの場が適切かを判断する会議である。事前に対象児の保護者や園の先生等と教育相談をしたり、対象児と面談をしたりした内容に基づいて、調査員が適切だと考える学びの場や支援内容等を書いた資料を作成する。そして、教育支援委員会の場にその資料を提出し、医療や福祉・教育等を専門とする委員さんたちに内容の妥当性や是非について慎重に審議していただき、決定してもらうのである。

 

    私たち特別支援教育指導員は、当日の教育支援委員会(午前と午後の部ごとに8つほどの分科会を開催)を運営する事務局として司会や記録を担当するのだが、中には調査員の役割も兼務する者もいる。実は私も調査員として4名の対象児を担当していたので、出勤した日は翌日からの会議の準備に追われた。しかも、午後からはある小学校の1年男児の保護者の教育相談があったので、まだ体調が万全でない中、大変忙しい1日になった。また、翌日からの教育支援委員会自体も慎重な審議が求められ、終日、ピリッとした緊張感の中で過ごした2日間になった。さらに、26日(金)は自分が担当した教育支援委員会の記録の整理や、対象児の審議資料の訂正等の仕事で、勤務時間は無駄なく費やすことになった。

 

 そのような中、昼間の仕事のストレス解消のために、私が就寝前後に読んでいたのは、『永い言い訳』(西川美和著)という小説だった。「長い」ではなく、なぜ「永い」なのだろうか?「言い訳」とは、何に対するどんな言い訳なのだろうか?タイトルを目にした時に様々な疑問を持った私が、やく1か月ほど前に馴染みの古書店でつい衝動買いした本だった。自宅療養中に読んだ『マチネの終わりに』(平野啓一郎著)に触発されて、また小説を読んでみたかったのである。この一週間ほどで読了。家族・幸福・生死等に関して、いろいろと考えさせられた作品だったので、私なりの簡単な読後所感を綴ってみたい。

 本作品は、夫婦関係が冷え切っている子どものいない衣笠家と幸せな4人親子の大宮家という二組の家族から、それぞれ妻と母(妻でもある)がバス事故で亡くなるところから物語が動き出すのだが、私はその前に語られる人気作家・津村啓こと衣笠幸夫の名前の由来に纏わる部分を読んでいる時はちょっと鼻白んだ気分になっていた。何となくありきたりな感じがしたのである。しかし、その後の物語の展開部分は、複数の登場人物の視点で語られる構成も相俟って、私は「真に幸せな家族とは?」と問い続けながら、その答えを求めるようにぐいぐいと引き込まれていった。

 

 特に、妻の親友の夫・大宮陽一に子どもたちの世話を申し出た衣笠幸夫が、母親を亡くした慎平君と灯ちゃんの兄妹との間に通わす心温まる交流場面は、新しい「幸せな家族」の関係性を私に感じさせた。でも、作者の西川氏は実はこの関係性を肯定も否定もしない書きぶりをする。そうなのだ。「真に幸せな家族」というものを簡単に実体化しようとしてはいけないのである。

 

 ただ、幸夫が亡き妻へ宛てた手紙にした最終章において、私の心に実感として突き刺さった言葉がある。それは、「人生は、他者だ。」という言葉。つまり、人間が生きていくためには、自分にとって「あのひと」と想うことの出来る存在=他者が必要だということ。この場合の「他者」とは、自分と異文化な存在というような形而上学的な意味ではなくて、自分にとってなくてはならない存在という生活世界的な意味で使われている。今まで私という実存を間違いなく支えてくれたのは、「親、妻、子どもたち」という家族であったし、これからもそれらの家族と共に「孫」という家族になると思う。そう考えると、「人生は、他者だ。」という言葉の重みを、改めて噛みしめてみることが大切だと思った。

 

 最後に、本作品のタイトルに対する私の幾つかの疑問の回答内容について触れておきたい。それは、本書を解説している翻訳家の柴田幸元氏の解釈を援用すると、次のようになる。

〇 「永い言い訳」とは、「永遠に続く、自他共に納得させるための自分についての言い訳」である。

まあ、別の言い方をすれば「人生が終わるまで続くのが自己了解」であり、「これで終わりということはないのが自己了解」であるといってもいいのかな…。