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学校を「共生社会」にするために大人ができることとは?~本田秀夫著『学校の中の発達障害―「多数派」「標準」「友達」に合わせられない子どもたち―』から学ぶ~

 秋らしい日が続くようになったので、私は久し振りに昼休みを利用して、職場近くのデパートに入っている紀伊国屋書店へ行ってみた。特別にはっきりした目的があったわけではない。最近、書店へ行く暇もなかったので、どのような新刊書が並んでいるのか知りたいという程度の目的であった。時間を気にしながら、足早に店内を見回っていると、興味を引く新刊本を見つけた。『学校の中の発達障害―「多数派」「標準」「友達」に合わせられない子どもたち―』(本田秀夫著)という今の仕事に役立ちそうな本である。私は、今まで本田氏の著書を数冊読んで、「発達障害」をもつ子どもたちへの適切な支援のあり方について有益な示唆を得ていた。だから、早速、本書も入手し、その日の夜から読み始め、数日後には読了した。

 そこで今回は、本書の中で特に共感したり学んだりしたことが多かった「第5章 これからの学校教育」の内容についてまとめ、自分なりの所感も付け加えてみようと思う。なお、第5章は最終章であり、著者が第4章までに主張してきた内容を前提にしているので、まず第1章から第4章までの要点を簡潔にまとめておきたい。

 

 著者は発達障害の子が学校で困ってしまうことが多いのは、「学校の標準」が狭いという現状をまず訴えている。そして、学校を居心地のよい場所にするための対策として、次のような事項を紹介している。

〇 「ユニバーサルデザイン」(誰もが活動しやすい環境の設計)・「合理的配慮」(個別の配慮が必要な人への対応)・「特別な場での個別の教育」(特有の課題に合った支援や環境の提供)という3つのステージを意識して環境を整えること。

〇 成績や学力を重視し過ぎないこと。

〇 子どもの自信やモチベーションを大事にすること。

〇 子どもがよりリラックスして、自分らしく学ぶためには、専門的な支援を受けること。

〇 特別支援教育の枠組みも、より柔軟なものにしていくこと。

 

 では、著者は以上のような事項を踏まえて、学校を「共生社会」にするために、大人はどのようなことができると考えているのだろうか。第5章の最初に、著者はその例として子どもの「登校渋り」について語っている。それによると、「登校渋り」というのは、「子どもが悩み抜いて疲れ果てて、自分でできることはすべてやり尽したという、最終段階のSOS」だから、保護者も学校の先生も、すぐに対応する必要があり、具体的に次のような対応内容が大切だと挙げている。

〇 保護者は、その日はひとまず休ませて、ゆっくり時間をとって「どうしたの?」と聞いてみる。

〇 先生は、子どもが「楽しく学校に通っているかどうか」という視点で観察する。

〇 保護者と先生がそれぞれに子どもへの理解を深め、「こういう活動がつらいと言っています」「授業中にこんな様子が見られます」といった情報を共有する。

〇 子どもの悩み事に応じて、学校側の環境をどのように調整できるかを、保護者と先生で考えていく。

 

 しかし、このような対応をしても不登校になる場合がある。著者は、その子どもの生きづらさの要因として、学校における「連帯責任」という考え方があるのではないかと指摘している。そして、集団に「連帯責任」を負わせないようにするためには、「みんな一緒に」ではなく、「お互いにリスペクト」という姿勢が必要になると主張している。これは、私なりに言い換えれば「他者を異文化として尊重する」という視座をもつことである。では、「お互いにリスペクト」できる「共生社会」をつくっていくために、大人は何ができるのか。著者は、次の2つの視点を提案している。

〇 誰もが安心して、自分らしくいられる環境をつくること。その際に注意することは、少数派の論理を軽視しないこと。

〇 みんながお互いを攻撃しないこと。お互いの立場が衝突した場合は、コミュニケーションによって妥協点を見出すこと。

 

 また、著者は集団の中にいる時の生きづらさを解消する大事なキーワードとして、「迷惑」と「失敗」という言葉を挙げている。その理由は、人に「迷惑」をかけることを恐れていると、コミュニケーションや建設的な対話が生まれないからであり、自分が「失敗」をすることを恐れていると、集団活動をうまく進めていけないからである。私も、現職時代に自分の学級経営の基本方針として、このような内容について子どもたちに話していたことを思い出しながら、共感した。

 

    誰かに「迷惑」をかけても問題にならず、一人の「失敗」をお互いがカバーして助け合える、一人一人の個性が集団の力になるような集団であれば、発達障害のある個性的な子も参加しやすくなるのである。今、私たち大人は、学校をこのような「共生社会」にしていくことが求められているのではないだろうか。当たり前のことだけどね…。