今年のクリスマスの日、日本近代史家で評論家の渡辺京二氏が熊本市の自宅で老衰のために92歳で亡くなったことが報じられた。渡辺氏のことについては、幕末・明治期に訪日した外国人たちの滞在記を題材として、江戸時代を明治維新によって滅亡した一つのユニークな文明として甦らせた『逝きし世の面影』の著者として知っていた程度であったが、私はこの訃報に触れてある種の喪失感のようなものを抱いた。その理由はよく分からないが、もっと渡辺氏の生きざまについて知っておくべきだったという悔恨があったからではないか。しかし、私は今までに一度も渡辺氏の著書群に目を通すことはしていなかった。私は弔意を表するつもりで、手元の本箱の中に眠っていた彼の著書『さらば、政治よ 旅の仲間へ』のページを捲ってみた。そして、クリスマスの日以降、年末の小掃除をはじめ新年を迎える諸々の準備に追われる中で暇を見つけて読み継ぎ、何とか本日の午前中に読了した。
本書は、渡辺氏が85歳頃に、スタジオジブリの雑誌『熱風』と『文藝春秋スペシャル』に掲載されたインタビュー記事や、『西日本新聞』と『エコノミスト』に連載された時論や書評、それらに加えて60歳頃に行ったカール・ポランニーという思想家に関する講義録等で構成された評論集である。私は、他のものとは時期的にずっと遅い「ポランニーをどう読むか-共同主義の人類史的根拠」という講義録を所収したのか最初少し疑問だったが、本書全体を読み終えて本書の論旨には繋がっていると納得することができた。
では、本書全体を貫いている論旨とは、何なのか。第1章の時論の最初に位置付けている書き下ろし「さらば、政治よ-旅の仲間へ」の中にあると、私は思っている。それは、次の部分である。
・・・まだが私はそれよりも、政府や自治体に頼らぬ、いわば民間の共生の工夫をこらしたい。その工夫に政治はいらぬ。必要なのは自分の精神革命である。つねに淀もうとし、自足しようとし、眠りこもうとする精神の覚醒である。永久革命とはおのれを他者に捧げるという、永久に達成できぬ境地への憧れのことだ。喪われた生甲斐を回復しようとする、生の無意味と戦おうとする、永久の試行のことだ。・・・
この中の「自分の精神革命」こそが、著者の旅とも言える生涯の目的であったのであろう。そして、そのような旅の仲間へ語り掛けたのが、「さらば、政治よ-旅の仲間へ」という時論であったからこそ、本書のタイトルも同様にしたのであろう。私は本書を読みながら、何度も「渡辺氏は本当に気骨のある“精神の革命児”だったのだなあ。」と感銘の声を発してしまった。
また、本書の第3章「読書日記」の中に、『苦海浄土 わが水俣病』の著者である石牟礼道子氏が20歳の時に初めて書いた小説を含めた詩文集『不知火おとめ』と、渡辺氏が石牟礼論の最高峰と称している白井隆一郎著『「苦海浄土」論-同態復讐法の彼方』を取り上げていることに対して、私は渡辺氏と石牟礼氏との関係性が気になったので調べてみた。
すると、何と渡辺氏は石牟礼氏の編集者として半世紀以上、彼女の仕事を手伝ってきたという。特に彼女がパーキンソン病を発病してからの約15年間は、食事を作るためにほぼ毎日、彼女のもとに通ったらしい。これは単なる作家と編集者という関係性ではなく、精神革命を目指す仲間、いや「同志」という関係性だったのではないのだろうか。私は俄然、渡辺氏や石牟礼氏の著書を読み、お二人の生きざまの本質や作品の奥義等について追究してみたい意欲が沸いてきた。来年も公私共に多忙な日々が続くと思うが、自分なりの課題意識を醸成しながら読書による学びを積み重ねていきたい。合掌。
追伸;本記事が本年最後の記事になると思います。拙い文章にも拘らず、本年も当ブログを閲覧していただいた読者の皆様方、本当にありがとうございました。記事の投稿ペースが年々、遅くなってしまい情けない限りですが、あまり無理をしない範囲でカメの如く歩み続けていく所存ですので、これからもご愛読くだされば幸いです。では、皆様方にとって来年も幸多き年になりますように心からお祈りをしつつ、筆を擱きます。よいお年をお迎えください。