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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「考える」って、どうすることなの?どのようにすればできるの?~安野光雅著『かんがえる子ども』と野矢茂樹編著『子どもの難問~哲学者の先生、教えてください!』を読んで~

 今の職場の隣に、半年間勤務して約2年前に退職した職場である当市の男女共同参画推進センターがあり、その2階に図書コーナーが設置されている。主には男女共同参画推進に関する本を所蔵しているが、小説やエッセー、子育て本等も少しは並んでいるので、勤務していた時には昼休みの時間を利用して数冊の本を借りることもあった。その懐かしい図書コーナーに、今月13日(金)の昼休みに久し振りに足を運んでみた。

 

 しばらく何気なく見回っていると、子育て本の書棚の中に面白そうな本を見つけた。一冊は、私の好きな絵本作家の安野光雅氏のエッセー『かんがえる子ども』。もう一冊は、当ブログの前々回の記事で取り上げた『難しい本を読むためには』(山口尚著)の中でも紹介されていた『子どもの難問~哲学者の先生、教えてください!』。私はそれらの本を脇に抱えて、階下にある図書貸し出しの受付窓口に持って行き、2週間借りることにした。そして、やっと昨日までに読了し、本日27日(金)に返却した。

 そこで今回は、まだ記憶が新しいうちにそれらの本の読後所感をまとめておこうと思う。

 

 安野氏は『かんがえる子ども』の「あとがき」で、当時の皇太子の家庭教師として招聘されたエリザベス・グレイ・ヴァイニング夫人の言葉を引用し、誰が言ったにしろ聞いたことや新聞を読んで知ったことを全部信じ込まないように、自分自身で真実を見出すことの大切さについて述べている。そして、「自分で考える」ということを、多くの人に「考えてほしい」と強調している。私もその通りだと思う。現在は、怪しげな情報でもSNSですぐに拡散されて、その真偽について自分で考えたり確かめたりしないままについ信じてしまうことがある。常に「自分で考える」ことを怠らないことが大切である。

 

 でも、そもそも「自分で考える」というのは、どうすることなのだろうか。また、どのようにしたらできるのであろうか。私はついつい考え込んでしまった。そうこうしながら、『子どもの難問』を読んでいたら、何とこれらの問いに答えるためのヒントになる箇所を見つけた。次に、『子どもの難題』について簡単に紹介してみよう。

 

 本書は、あたかも子どもが哲学者に向けて難問を発しているような体裁をとっているが、実際は編著者である野矢氏が最も無防備で粗野な子どもの立場に立って、哲学の根本的な問題を著名な哲学者たちに発したものである。その本音は、子どもの口を借りて大人の哲学者を困らせてやろうという多少意地悪に気持であったそうである。ところが、その目算は見事にはずれたという。

 

 執筆した哲学者たちは、剥き出しのまる裸で突き付けられた難題に対して誰ひとり逃げたりごまかしたりしないで、それに応じるのを楽しんでいるようだったのである。それだけでなく、子どもたちに語り掛ける口調でありながら、決して水準を下げずに核心を素手でつかんで取り出して見せているのである。私も本書を読み通して、野矢氏の指摘していることに納得した。各問いに対して回答した哲学者たちの文章を読みながら、私もいつの間にか「一緒に考えていた」のである。その中の一つに、「考えるってどうすればいいの?」という問いに対して回答した柏端達也氏と野矢氏の文章があり、これはまさに先の私の問いへの答えに対するヒントになったので、私の独断的な大胆さを発揮してそれぞれの文章を要約してみよう。

 

 「ちゃんと考えることは意外と難しい」と題する柏端氏の文章では、身体の妙な向きとか先入観とか自分に都合のよい思い込みとかによって考えが左右されることがあるので、満足いくようにちゃんと考えるのは難しいから、自分の考えがほかならぬ自分のせいで予想外の方向へ歪められる可能性を秘めていることは常に考慮しておくとよいと主張している。

 

 また、「考えるとは、見ることを作り、変えていくこと」と題する野矢氏の文章では、どんなものも他の何かと関係し合っており、その関係を私たちは考えているのだから、考えることが見ることを成り立たせ、さらに見ることを変えていくと言えるのであると主張している。

 

 以上のことから、柏端氏の文章は先の私の問いの「自分で考えるとはどのようにしたらできるのか」に対するヒント、野矢氏の文章はもう一つの私の問いの「自分で考えるとはどうすることなのか」に対するヒントになっていると思う。私は、安野氏のいう「自分で考える」ことの意義を大いに認めながら、柏端氏や野矢氏の主張を踏まえた時に、「自分」とは他者や環境等の関係性の中に生きているのだから、「他者や環境と共に考える」ということの意義も大きいのではないかと考えた。読者の皆さんは、「どう考えますか?」