先月10日(金)の「愛媛の探究をつくる会」が終わった後、附属小学校の道徳科を研究している先生と「道徳科教育の在り方」について少し意見を交わすことができた。主に道徳科と他教科等との合科的・関連的な指導を構想するカリキュラム・マネージメントの大切さについて、共感的な対話ができたことが印象に残っている。また、熊本大学の苫野一徳氏が主張している「自由の相互承認」をねらいとする「道徳科教育の在り方」に関して少し話題にしたことも記憶している。
そのような経験をきっかけにして、私はここのところずっと「道徳科教育の在り方」に関する原理的なことを考えていた。そのような中、私に改めて「学校教育においてなぜ道徳が必要なのか」「どのような道徳が必要なのか」について多くの示唆を与えてくれる『大人の道徳―西洋近代思想を問い直す―』(古川雄嗣著)という本と出合った。本書は、本来「道徳」で教えなければ/学ばなければならない、近代の人間と社会と国家の論理をできるだけ分かりやすく解説した本である。「人格」「自由」「民主主義」「国家」等の本質について、デカルトやカント、ルソーなどの西洋近代思想を基に、可能な限り平易に解き明かしており、誰もがゼロから「道徳」を学び直すように工夫している。また、自分の頭で考えることができるようになること、すなわち、思想をすることができるようになるための入門書になっており、誰もが本当の「大人」になるための知恵を授けてくれる本である。
そこで今回は、本書の第3章の中で著者が「やりたいことをやりましょう」は<奴隷の道徳>であると主張していることの意味やその理由等について、私なりに要約してまとめた上で簡単な私見を付け加えてみようと思う。
まず、デカルトにはじまる近代の人間観と自然観に基づけば「人間は精神(理性)が身体(自然)を支配する存在である」と考えられていることを著者は指摘し、このことは精神の「命令」に身体が「服従」することを意味すると結論付けている。つまり、人間以外の動物は自然法則(本能)の命令に逆らうことはできないが、人間だけは自然法則の支配から解放されて、自分の行動を自分で決定できるという「自由」と「自律」をもつ存在だということである。そして、著者はこの「自由」と「自律」こそが人間の本質なのだと言っている。
次に、人間だけがもっている「自由」とは、他人の命令にも、本能の命令にも服従せず、ただ自分自身の精神(理性)の命令にのみ服従するということを重ねて確認した上で、人間の本当の「自由」の意味とはこの理性の道徳的命令に服従することなのだと、著者は強調している。言い換えれば、「自由」であることと「道徳」の命令に従うこととはほとんど同じであり、この両者があってはじめて人は「人間」であり得るのである。だからこそ、この意味での「自由」は、「人間」であることの本質を構成する「道徳」として、全ての人間に教育されなければならないのである。
したがって、「やりたいことをやりたいようにやる」ことは全て、本能という自然法則に「支配」されている状態と言えるから、「私は本能に逆らう自由はありません。私は本能と欲望の奴隷です。」と言っているのと同じだと、著者は断言する。自分の好きなことしかやりたくない、しんどいことや面倒なことはしたくない、もっと金持ちになりたい、もっと快適な生活がしたい、もっとうまいものが食いたい・・・といった自然の本能的な欲求に逆らい、理性の道徳的な命令に服従することによって、自分で自分を支配できた時、はじめてその人は「人間」になることができる。「道徳」は、それをこそ教えなければならない。そのような訓練によって、人は動物ならざる「人間」、子どもならざる「大人」になるのである。著者はそう主張する。
ところが、現在の学校教育における「道徳」は、子どもたちに「自分のやりたいことをやりましょう」「自分の好きなことをやりましょう」と煽り立てている状況が見られる。著者は、このような事態は人間を本能や欲望に支配された存在、もっぱら労働と経済にだけ専念すべき存在という2つの意味でとらえており、これは<人間の道徳>ではなく、<奴隷の道徳>だと憤慨している。特に労働と経済から解放された「自由」において、政治という公共的な活動に参加するのが市民であり、それを果たすためにこそ、市民は個々の私的な欲望から解放された「自由」な人間でなければならなかったはずなのである。
では、なぜ<人間の道徳>ではなく<奴隷の道徳>を学校は教えているのか。著者はこの明らかな倒錯の背景には、次のような理由があると推察している。
〇 日本の学校の教育課程には、「自由」の概念の意味について理性に基づいて論理的に考える機会(哲学教育を受ける機会)がほとんどないこと。
〇 戦後の日本の教育が、極端に「私的自由」を強調し過ぎたこと。
〇 今までの政府が、経済成長のために意図的に人を労働と消費の自動機械のようにしようとしていること。
そして、「人間は自分のやりたいことをやるべきだ。それが人間の自由なんだ。」という現代のイデオロギーこそが、むしろ私たちをかつてなく不自由で息苦しい社会へと駆り立てているように思えてならないと、著者は憤慨しているのである。
私は、著者が「やりたいことをやりましょう」は<奴隷の道徳>であると主張する意味やその理由等について論述している内容に概ね賛同するが、本能や欲望に服従するのではなく理性の道徳的な命令に服従することが人間の「自由」だという近代的な自由観に対しては多少の疑問をもつ。一つ目は、「欲望」という言葉の意味を本能(欲求)という言葉と同列で論じてよいのかという疑問。二つ目は、人間の「理性」は本当に信じるに足るものなのかという疑問。三つ目は、理性の主体である人間が何かを決定する際に拠り所とする「自由意思」なるものは本当にあるのかという疑問。これらの疑問は、現代思想以来のテーマになっており、今までに様々な哲学者によって論じされていると思うが、私にはまだそれらを統合的に理解することができていない。今回の学びをきっかけにして、少しずつでもこれらの疑問の糸を解していけたらいいなと呑気に考えている。1年半年後には古希を迎えようとしている私だが、さてどうなることやら・・・。