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エセ演繹型思考に基づく文科省の教育改革の問題点とは?~苅谷剛彦著『コロナ後の教育へ―オックスフォードからの提言―』から学ぶ~

 全国の小学校は2020年度から新学習指導要領を全面実施する予定だったが、政府が3月から5月まで新型コロナウイルスによる感染症対策の一つとして各学校の全国一斉休校措置を取ったために、思わぬ事態に陥り全面実施どころではなくなってしまった。特に、新学習指導要領で謳われていた「主体的・対話的で深い学び」(「アクティブ・ラーニング」のこと)を視点とした授業改善への気勢がそがれてしまう結果となった。だからという訳ではないが、私が2021年7月より特別支援教育指導員として各学校を訪問して参観させていただいた授業の多くは、旧態依然とした授業展開であった。

 

 ところが、従来の授業風景とは全く違う場面と出合うことがあった。今まではインターネットを活用して調べ学習をする時は、学級全員がパソコン室へ行って教師の一斉指導の下で取り組むことが多かったが、最近は小学校の各教室で子どもたち一人一人がタブレット端末を活用して調べ学習やドリル学習等に取り組んでいるのである。これは、政府が2019年に開始し2023年度には実現する目標としていた「GIGAスクール構想」を、2020年度に前倒ししたことに由来する。新型コロナへの対応の必要性を背景に、Society5.0を実現するための教育政策の動きが加速したのである。

 

 このような流れの中、中教審初等中等教育分科会は2020年10月に「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して:全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現(中間まとめ)」を発表した。その「総論」の「1.急激に変化する時代の中で育むべき資質・能力」では、「予測困難な時代」に対応できる資質・能力のより一層の育成を求めている。また、このことは新型コロナウイルス感染症の感染拡大の影響により、ますます必要となっていると強調されている。さらに、「各論」の中で「令和の日本型学校教育」の内容の要点に関する留意点・方向性等について論述されている。しかし、それらの論述はまだまだ抽象度が高い故に異論を挟みにくいものになっている。

 

 それに対して、2019年6月に経済産業省が提言した「『未来の教室』ビジョン」に見られる教育改革の方向性は、「令和の日本型学校教育」の具体的な姿を浮かび上がらせている。それは「これまでの実践とICTとの最適な組合せを実現する」であり、「文科省経産省が共に進めてきたGIGAスクール構想をさらに日本の教育全体に拡張する」プランである。つまり、AIやICTの活用を全面展開することで、新しい社会の実現を目指すSociety5.0の政策構想に適合する教育を作り上げようとするものである。具体的には、AIやICTを使う「Edtechの活用」が「学びの自立化・個別最適化」の中心に位置づけられているのである。

 

 それにしても、経産省主導による学習の個別最適化の具体性と、文科省の「中間まとめ」に書き加えられた留意点の実現手段の抽象性の違いは、一体何に由来するのであろうか。ただし、ここで断っておきたいことがある。それは、経産省のいうAIやICTと結び付いた学習の個別最適化の妥当性に私が賛同している訳ではないということ。否、私はむしろ批判的にとらえている。私がここで問うているのは、文科省の教育改革に見られる政策論法の在り方や、その根底にある思考様式に潜んでいる問題点なのである。

 

 私は、このような問題意識の本質的なとらえ方について的確かつ論理的に指摘してくれている本を、最近見つけた。『コロナ後の教育へ―オックスフォードからの提言―』(苅谷剛彦著)である。著者の苅谷氏は、現在、英国のオックスフォード大学社会学科及びニッサン現代日本研究所の教授で、日本の教育改革を前提から問い直してきた論客である。私が以前から『大衆教育社会のゆくえ―学歴社会と平等神話の戦後史―』『知的複眼思考法』『学校って何だろう』『教育改革の幻想』『教育再生の迷走』『学力と階層―教育の綻びをどう修正するか―』等の著書を読んで、教育社会学者として信頼できると思ってきた方である。

 本書の内容は今までに私が無意識に採用してきた思考様式に対する盲点を鋭く突いてくるものであったので、今回はその中でも特に私の先の問題意識との関連が深い「エセ演繹的思考に基づく文科省の教育改革の問題点について」私なりにまとめてみようと思う。

 

 まず著者は、今まで文科省は具体的な実現手段を伴わない教育改革を繰り返していると言い、その根底には「エセ演繹型思考」(実態把握をなおざりにし、事実を基に帰納的に日本の教育をとらえ直す機会を阻む思考)があると指摘する。もう少し分かりやすく述べよう。1980年代以降の教育改革は「予測できない未来」=「先行き不透明な社会の変化」と結び付られる「不確実性」への対応という問題を設定し、それに対応できる資質や能力の必要性を強調するが、その内容は確定できず曖昧なものであった。しかし、教育改革の議論はそれらを欠如として定めているので、不可知論を中心とした循環論法による論理を構成している。だから、その資質や能力を育成する手段も机上の空論になってしまっている。著者は、このような文科省の政策論法を「エセ演繹型思考」と名付けているのである。

 

 この「エセ演繹型思考」は、目指すべき資質や能力が実際に育成されたかどうかも分からないために、安易に外部の参照点に飛びついてしまう。その実例が、PISAのような国際学力調査結果であったり、世界の大学ランキングだったりする。しかし、それらの順位をいくら上げても、それが日本独自の社会や教育の課題解決にどれだけ資するかは不明である。それは、今までの日本の教育がどのような資質や能力を育成してきたかを、自らの経験を元に内部の参照点に照らして議論することにはならないからである。

 

 特に日本における「主体性」育成をめぐる教育改革の議論が混迷に陥るのは、理想的で受け入れやすいその言辞に比して、未来志向の「不確実性の罠」にハマりやすいからである。人々は現在の生活に不安を持つほど、その不安は未来(≒次世代)に転移される。不可知論だと分かっていても、不確実性という問題設定が説得力を持つのはそのためである。では、この「不確実性の罠」から逃れるために、私たちはどうすればいいのだろうか・・・と、著者は問う。

 

 この問いに対して、著者自身が「過去の経験の徹底した帰納型検証」が必要だと答える。つまり、予想できない変化に対応できたと看做すことができる「成功事例」やできなかった「失敗事例」を基に、それぞれの局面で担当した人々や組織が何を行ったのか、どのような判断を下したのか、それらを可能にした条件は何かを帰納的に検証することが必要なのである。その痕跡の中に、教育が掬い上げるべき課題が埋め込まれているはずである。著者は、このような思考様式を「帰納型思考」(事実の積み上げによる判断)と名付けており、これこそが文科省の教育改革の問題点を解決するための方策になると強く主張している。

 

 私は今まで「主体的・対話的で深い学び」(「アクティブ・ラーニング」のこと)を謳う新学習指導要領の考え方に対して、無意識のうちに「演繹型思考」を採用して受容してしまっていたのかもしれない。今、「探究的な学び」について自己研修を進めている過程であるが、もう一度「主体的・対話的で深い学び」こと「アクティブ・ラーニング」を実践していく方法や留意点等に関して、日本教育史における実践の成果や残された課題等を振り返って、その妥当性を考察していくという「帰納型思考」をしていく必要があると自省している。さて、そのためにどのような作業をすればいいのかなあ。