ようこそ!「もしもし雑学通信社」へ

「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「主体的・対話的で深い学び」の視点で授業改善を図ることの妥当性は?~小針誠著『アクティブラーニング』から学ぶ~

 前回の記事で、2020年度から小学校で全面実施となった新学習指導要領で謳われている「主体的・対話的で深い学び」(「アクティブラーニング」のこと)を、私は無意識に「エセ演繹型思考」によって受容していたことを反省し、意識的に「帰納型思考」を駆使することを通してもう一度とらえ直す必要があると述べた。そして、そのためにこれから具体的にどのような作業をすべきかを考えなければならないとも綴った。

 

 そのような課題意識を抱きつつ薄い霧の中を彷徨っていた私にとって、その霧を少しは吹き飛ばしてくれそうな本と出合う好機が訪れた。つい先日、いつもの古書店へ出掛けて行き、私の課題解決に役立ちそうな本を物色していると、現代日本の学校教育でなぜ「主体的・対話的で深い学び」が提起・導入されようとしているのかを歴史的に解き明かし、批判的に考えようとしている『アクティブラーニング』(小針誠著)という本を見つけたのである。まさに「帰納的思考」を駆使して「主体的・対話的で深い学び」をとらえ直そうとしている内容ではないか。私は小躍りするようにして本書を入手して、ここ数日間で読み通した。

 そこで今回は、私の課題解決につながる作業として、本書の中でも「アクティブラーニング」に関する日本の学校教育の歴史を振り返りながら、これからの「アクティブラーニング」の実践上、運用上、倫理上の課題について触れている<第5章 未来のアクティブラーニングに向けて>の内容を要約した上で、私なりの考えを付け加えてみようと思う。

 

 まず、著者は実践上の課題として、飯田市教育長の代田昭久教育長が挙げている次の四つの「アクティブラーニング」の課題と限界を紹介している。

①「時間の限界」…知識のある子もない子も一コマで授業を完結させなければならないので、時間が足りない。

②「場所(空間)の限界」…教室空間の中で、教師と学習者という関係の学びだけでは、多様性を生みにくい。

③「指導者の課題」…既存の教材、今までの指導力では対応できない。

④「学習者(本人)の課題」…意見の対立が人間関係の対立まで発展していく。

飯田市では①に関して、ICTを活用した「反転学習」(動画を通じて生徒たちが授業内容を予習し、教室では内容の共有を確認して、話合いや発展学習の時間に充てる方法)を導入したり、学習指導要領では必ずしも一単位時間の授業の中で全てが実現されるものではなく単元や題材等の内容やまとまりを見通して行われるべきことの意義を強調していることを確認したりして克服しようとした。しかし、著者は、②や③に関しては教師と子どもとの関係や、その媒介となる教材の見直しが求められること、④に関しては教師が子どもたちに話合いを促しても、クラスメイトの人間関係の対立やトラブルを恐れるあまり、意見の対立や討論を回避し中身のない議論に停滞してしまうことがあることなどについて危惧している。

 

 また、著者は子どもたちの学習意欲・態度や興味・関心はもちろんのこと、知識の面でも個々の子どもたちの家庭環境(社会階層)の影響がその学習成果に大きく出るひとを警鐘して、「アクティブラーニング」こそ「強い個人」を前提としたカリキュラムだと批判している。つまり、「アクティブラーニング」は新自由主義の思想や理念と都合よく結び付いてしまう危険性が非常に高く、貧困など家庭環境に恵まれない子どもや学力の低い子ども・障がいをもった子どもははじめから教育の対象に想定されていないのではないかと心配しているのである。

 

 二つ目に、著者は運用上の課題として、現場の教師が求める「アクティブラーニング」のマニュアルをそのまま実践することは決して有効ではないことを述べ、その落とし穴や「型」への依存の問題点等について言及している。そして、それらから抜け出すためには、授業実践案の紹介やマニュアルなどの「見方」を大きく変え、批判的に読み解いていく必要があることを指摘している。言い換えれば、紹介例の授業の方法や段取りをそのまま実行するのではなく、その授業がいかにして成立していたか、その「条件」にも注意しつつ参照する態度が求められるのである。

 

 著者は運用上の課題の実例として、2020年度の大学入試制度改革「大学入学共通テスト」の安定的な運用に触れて、改革の目玉であった「思考力・判断力・表現力」を評価するための記述式問題についての課題も具体的に指摘していた。御承知の通り、文科省はこの記述式問題の内容や評価及び採点の方法等の課題をよりよく解決することができず、著者の指摘していたことが現実化してしまった。ここに理想と現実の乖離が顕在化してしまったのである。

 

 三つ目に、著者は倫理上の課題として、「アクティブラーニング」が教育課程や授業改善の視点として導入・実施されることは本当に「よいこと」や「望ましいこと」なのだろうかと根本的な問いを発している。理想ばかりを追い求め、語るだけでなく、もう一度立ち止まって「学力の三要素」「アクティブラーニング」⇒「主体的・対話的で深い学び」の視点が本当に好ましいのか、新学習指導要領の是非についても改めて考える地点に来ているのではないかと提言している。

 

 そして最後に、著者は「学ぶ」という特性を踏まえると、「アクティブラーニング」を達成するためには、次のような実践上の課題があることも自覚する必要があると述べている。

①「アクティブラーニング」は理想的ではあるが、基礎学力を通じて必要な知識や情報を十分に内化していない限り、これを実現するのは存外に難しいこと。

②「アクティブラーニング」を達成するためには、子どもたちの学習意欲や基礎学力とともに、彼らの学びを支援する教師の高い力量も問われていること。

③「アクティブラーニング」の可能性とともに、その限界についても併せて認識しておく必要があること。

④「アクティブラーニング」を実践する際の子どもたちに対する内的動機付けにも限界があること。

 

 さらに、著者は「アクティブラーニング」の政治性(ポリティクス)についても検討している。とりわけ懸念している政治的課題は、学校教育を通じて、時の国や政府の意図する道徳観・歴史観・社会観のみが子どもたちに提示され、それらを積極的に育み、思想統制につながる自発的に従わせるための学習活動になっていくのではないかということ。具体的には、愛国心等の特定の政治的価値や、グローバル人材の養成といった経済的な目標ばかりが強調され、それを受けて、あらゆる教育活動が再編成されようとしていること、そしてそれが進めば全体主義ファシズム)に転化しかねないことを大いに危惧しているのである。

 

 以上、本書の中で著者が触れているこれからの「アクティブラーニング」の実践上、運用上、倫理上の課題について概観してきた。不十分な要約になったために、著者の考えを正確に読者に伝えることができなかったかもしれないが、私なりにこれらの課題の多くは理解できた。しかし、私は自身が教職に就いていた時に、子どもたちが主体的に環境や他者とのかかわり合う中で「生きる力」が身に付いていくような教育実践に取り組み、その成果を実感してきたので、「アクティブラーニング」⇒「主体的・対話的で深い学び」を教育課程や授業改善の視点として導入することに懐疑的な著者の考えには全面的に同意しかねる点がある。確かにこの取り組みが、「強い個人」を前提にして「弱い個人」との間の「教育格差」をさらに拡大するようなことにならないようにしなければならない。そのための一つの手立てとして、「アクティブラーニング」⇒「主体的・対話的で深い学び」」の典型的な学びの姿をイメージしている「探究的な学び」のよりよい実践の在り方を追究していくことが必要であること。また、その実践化に当たっては、現職時に自分なりに実践してきた成果と課題を明確にしていくことが不可欠であることを再確認して、今回の記事はとりあえずここで筆を擱きたい。ふう、ちょっと疲れてしまった…。