3月も中旬を過ぎると、ほとんど各学校からの教育相談業務はなくなり、私たち特別支援教育指導員の仕事は開店休業状態になる。こんな時は、自分の課題意識に即した特別支援教育関連の本を読んで研修をしようと、私は少し気合を入れて読む必要があると思っていた新書を購入した。以前に職場近くの大型デパート内にある紀伊国屋書店で目にして、パラパラとページを捲ると内容的にちょっと難しそうだったので、その時は買うのを止めた『普通という異常―健常発達という病―』(兼本浩祐著)という新書である。
<後書き>の中で、著者の愛知医科大学医学部精神科講座教授の兼本氏は、本書を執筆中に亡くなった木村敏氏と祖父江逸郎氏という二人の大先達によって「人間であるとはどのようなことか」という問いに対して出された解答が、極めて対照的であったことに気付いたと綴っている。そして、自分の実感がどちらの人間観に近いかというと、深々と何か生命に根を張る木村先生の人間ではなく、長年の馴致の結果、ようやく構築され、私たちの表皮をつくり、私たちを今あるように見せていながら、ちょっとした動的平衡状態の乱れによって、あまりにもあっけなく、あるいは暴力的に失われてしまう祖父江先生の人間のほうだと明言している。このことは、著者がどのようなスタンスで本書を執筆したかに関わるポイントになっている。
本書の出発点では、贔屓にしているADHD的なAちゃんを応援したいという単純な気持ちであったが、上述した内容に気付いたことを契機にして、最終的には健常発達的なBちゃんがその特性を生きることに疲れた時の処方箋をつい考えるようになったと、著者は続いて語っている。その結果として、存在するために一定程度の「いいね」を必要とする健常発達の人は、徹底的に「いいね」を奪われると、この世界にはちゃんと存在できなくなるので、何らかのかたちで「いいね」を外部から獲得するというやり方を見つけることが必要であると主張している。しかし、この処方箋は現実的には難しいものである。
この処方箋として著者が具体的に挙げている事例は、郡司ペギオ幸夫著『やってくる』の中で紹介されている「技」である。その「技」というのが、自らのADHD的なポテンシャルを最大限に引き出すことであり、「やってくる」もののノマド的で場当たり的な選択肢こそがセンスのよいものになると示唆している。著者は、次々に変転し、今ここで生じた実感の手応えに翻弄されるADHD的心性が社会制度的な規範になかなか馴染まないという意味で、「ノマド的」という用語を使っている。反対に、じかな手応えを社会的に有用な身体化した性向へと置き換えて自らを陶冶する健常発達的心性が社会制度的な規範に過不足なく自らをはめ込んでそこで機能するという意味で、「定住的」という用語を使っていて、ADHD的心性と健常発達的心性とを、反対概念として対比してとらえているのである。
このようなとらえ方は、本書の<はじめに>の中で「ADHDやASDを病なのだと考えるならば、いわゆる普通の人、あるいは健常発達的特性を持つ人も、見方を変えれば、じゅうぶん、病としてとらえることが可能なのではないか。」という疑問を呈していることとパラレルである。そして、その疑問の根拠について、<第二章 ニューロティピカル症候群の生き難さ>の中で、次のような説明をしている。
① 脳科学的にとらえるADHDの仮説として、遂行機能の障害と報酬系の障害という二重経路モデルがある。
② 報酬系の障害としては、ドーパミンという神経伝達物質が大きな役割を果たす二つの仮説である、DDP(力動発達仮説)とDTD(ドーパミン移行欠陥仮説)がある。
③ これらの仮説は、より長期的な対人忖度的な文脈での利害関係に沿った条件反射が成立することが健常だという発想において共通している。
③ このDTDの仮説から考えると、ニューロティピカル(神経組織としての定型的な)症候群は世界との生き生きした出会いが、脳に仕込まれた他者への忖度に置き換わってしまう「ドーパミン移行過剰症」であるという表現も可能である。
つまり、ADHDが「ドーパミン移行欠陥症候群」なのだとすれば、健常発達は「ドーパミン移行過剰症候群」と解釈する余地があると言っているのである。とすれば、脳科学における「健康」と「病気」の枠組みは相対化される。この視点の転換こそが、本書の主旨を支える基本的なスタンスなのである。
SNSの誹謗中傷による被害者たちは、今を生きる多くの健常発達の人に共通する問題に直面して亡くなったのではないか。「いいね」が自分の身体へと折り重なって像を結ぶことが人間の本質だととらえる祖父江逸郎氏の人間観に立脚する著者は、向こう側を持たない現代社会において「いいね」はより死活的な役割を果たしていると考えている。今を生きる健常発達の人は、世間一般の「いいね」の中央値が目まぐるしく変わるため、その本来の「定住性」が一見、見えにくくなっており、常に何らかのかたちで「いいね」を外部から獲得する必要がある。「色、金、名誉、身体」に拘って、周囲の「いいね」を得ることでやっと一つの「私」に束ねられている現代の健常発達の人の危うさについて、本書は深く考えさせられる視座を提供してくれている。私は本書を読み通しながら、健常発達(定型発達)と発達障害(非定型発達)とを区別することの意味や、人間とは何かという根源的な問いについて追究していくことの必要性を強く感じた。