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生前の義母との思い出、あれこれ…

 4月12日(水)の午後11時47分、義母が急性心臓病で亡くなった。享年94歳。

 

    その週の日曜日に、私たち夫婦は義母とお弁当やおはぎを一緒に食べようと実家を訪れたが、義母は食欲がなく、おはぎをほんの少し食べただけでお弁当は口にしなかった。次の日も食べ物を口にしない状態が続いたので、火曜日に義姉と妻は義母を掛かりつけの病院へ連れて行き診察してもらったが、詳しい検査が必要だからと近くの総合病院を紹介してもらった。そこで検査を受けた後で主治医から「炎症反応値が高くなっているが、その原因ははっきりしない。取り敢えず点滴を打ち様子を見てみよう。」と言われたそうである。点滴のお陰か義母は火曜日には食欲が少し出て来て、水曜日の晩御飯は久し振りによく食べたので義姉夫婦は少し安心していたらしい。

 

 その夜、寝る前にトイレで用を足したので、義姉が義母を介助してベッドへ戻そうとして廊下を歩いていた時、義母は崩れるようにしてかがみ込んだらしい。その際、義姉が心臓の鼓動を確かめると微かに脈打つ音が聞こえたという。しかし、義兄が手首で脈を取ろうとした時には確認できなかったので、急いで救急車を呼ぶと10分ほどで駆け付けてくれたらしい。その後、義姉が同乗した救急車は重篤な急患を受け付ける県立中央病院へ運ばれた。その県病院近くに自宅のある私たち夫婦は、義姉からの電話連絡を受けて急ぎ足で県病院へ向かった。

 

 救急病棟で出会った私たち4人は、看護師の案内で狭い空間の控室のような部屋へ入った。義母の安否が分からない状態だったので、私たちは落ち着かない気分のまま長い時間待たされた。どれくらいの時間が経ったかはっきりと分からない頃に、救命担当の若い女医がおもむろに入室してきて、義母が倒れた時の様子やそれまでの体調や通院した時の状況等について質問してきた。義姉夫婦はそれらの質問に対して丁寧に答えていたが、私は義母の状態について早く知りたいと少し苛立っていた。すると、表情を改めた女医が「お母様は当院へ運ばれてきた時には心肺停止の状態でした。救急処置を施しましたが、11時47分に死亡を確認しました。お聞きした様子から考えると、急性の心臓病が死因だと思います。」と告げた。

 

 その後、処置室のベッドに横たわっていた義母の遺体と対面した。義姉と妻の嗚咽の声が室内に響いた。義兄とともに私は義母の手を擦りながら、今までお世話になったことに対する感謝の言葉を何度も呟いた。義母に対する感謝の言葉は、13日(木)の午後6時から行われたお通夜の時も、14日(金)の午後1時半から執り行われた葬儀及び告別式や初七日法要の時も、そして遺骨となって実家の和室に帰り祭壇に飾られた時も、私の心の中で何度も繰り返された。そうなのである、それぐらい私や二人の娘たちは義母にはお世話になったのである。だから、私はこれから生前の義母との思い出をあれこれと綴つづりながら、改めて感謝の意とともに哀悼の意を表したいと思う。

 

 妻と結婚してから実家を訪れた時には、義母はいつも美味しい食事を作ってくれて歓迎してくれた。私が遠慮してあまり食べないと、必ず何度も「遠慮せずにお腹いっぱい食べてね。」と言ってくれた。私は徐々にその言葉に甘えて、本当に腹いっぱいになるぐらい食べさせてもらった。特に娘たちが生まれて実家でお世話になっている時でさえも、食事の用意をしてくれて泊まらせてくれた時は、本当に有難かった。今考えると、そこまで甘えてはいけなかったなあと反省しきりであるが、ついつい義母の優しさに頼ってしまった。それぐらい義母は私に対して温かく接してくれたのである。

 

 義母にとって孫になる私たちの二人の娘も、大変お世話になった。幼い頃はもちろん、高校や大学に行くようになってからも何かと気遣ってくれた。特に娘たちの私服はほとんど義母からのプレゼントだったと言っても大袈裟ではない。我が家は私の給与だけで妻が家計をやり繰りしてくれていたので、それは有難いことだった。また、義父母の持ち家を私たち夫婦の自宅として貸してくれたことも感謝している。私は借家の家賃を妻に払うように言っていたが、私の推測だが義父母はそれを貯金してくれて家計をサポートしてくれていたのではないかと思う。何の財産もなかった私にとって、特に経済的な面で助けてもらったことは言葉に言い尽くせないほどに感謝している。

 

 義父が身体を動かすことが徐々にできなくなる難病に冒されて、60代半ばで亡くなってから29年間、義母は実家を守った。90歳前までは俳句や写真、押絵、スイミングなどの多彩な趣味に勤しみ、心身共に元気に過ごしていた。しかし、米寿を過ぎた頃から認知症の症状が悪化してきて、身体的にも少し弱って来た。それでも、義姉夫婦が同居してくれていたので、必要な介助をしてもらって何とか日常生活を送ることができていた。私たち夫婦もできるだけ実家を訪れて、義母の話し相手になっていたが、何か生きる励みになることを見つけてほしいと願っていた。

 

    そこで、卒寿の誕生日のお祝いに簡易な卓球セットをプレゼントし、機会を見ては実家に行って私が卓球のラリー相手をしていた。義母は負けず嫌いなところがあり、ラリーの回数を伸ばすことに意欲的に取り組んだ。調子のいい時には100回を超えることもあり、休憩も惜しんで30分間以上も練習を続けることもあった。私たちは適度な休憩と水分補給を気遣ったが、義母はあまり気にしなかったので体調が崩れないか気が気ではなかった。今年の1月中頃にもラリー練習をして、確か60回以上続けることができた。でも、義母はやや不服そうな表情をしていた。それが義母とした最期のプレイになった。

 

    ここ数年は、認知症の症状も酷くなり、実の娘たちのこともはっきりと認識できない日があった。当然、私のことも娘婿だということは分かっていない様子だったが、卓球の先生とは認識していたようだった。でも、つい1か月前に我が家に私たちの娘やその子たちが集まった時に、義姉に付き添われて来た義母が私の長女(義母にとっては孫の一人)に対して語った「私はあの人(私のこと)の顔を見ると、気持ちが安らぐのよ。」という言葉を、私は忘れることができない。義母は、私に対してきっと心を許してくれていたのだ。そのような関係性を築けることができたことが嬉しい。

 

「お母さん、私を実の息子のように優しく接して、いろいろと細やかな心遣いをしてくださり、本当にありがとうございました。天国でお父さんと再会し、二人でゆっくりと休んでください。」合掌。