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勉強とはこれまでの自分の自己破壊である!~千葉雅也著『勉強の哲学~来るべきバカのために 増補版~』から学ぶ~

 今年のゴールデンウィークを9連休にするために、5月1日(月)と2日(火)に年次有給休暇を取った。ただし、4月29日(土)~30日(日)に二女が趣味でやっているフラダンスの発表会に出演するために、孫Mと共にやって来て一泊して帰ったので、ゆっくりと休養という訳にはならなかった。でも、久し振りにMと一緒に遊んでやることができたので、充実した時間を過ごすことができた。今年2月に満2歳の誕生日を迎えたばかりのMだが、とてもおしゃべりが上手になっており、ほとんど日常的なコミュニケーションには困らないほど語彙も増えていた。歌やダンス、模倣遊びなども自然にするようになり、遊びの相手をしていても飽きることがなかった。本当に子どもの成長は早いものだ。

 

 子どもの成長と言えば、私たちの自宅に近いマンションへ引っ越してきた長女の息子・孫Hは、この4月に妻や娘たちの母校である小学校へ晴れて入学し、ピカピカの1年生になった。乳児期から何かと世話をすることが多かった孫なので、感慨は一潮である。初めての登校日に、私は通学路まで行き、つい見送りをしてしまったほどである。何とかスムーズに学校生活がスタートし、4月の最終週には給食も始まった。

 

    また、勉強も本格的になってきたらしい。まあ本格的にと言っても、国語はひらがなの読み書きをしたり、算数は数を数えたり表記したりする勉強だと思う。孫Hもいよいよ公的な学校教育を受けるスタートを切った訳だが、私はふと改めて「勉強」とはどんな営みだと言えるのかという、哲学的な問いが頭に浮かんできた。そこで、『現代思想入門』を読んでから気になっていた千葉雅也氏の著書の一つである『勉強の哲学~来るべきバカのために 増補版~』を読んでみることにした。

 本書は、勉強の目的をこれまでとは違うバカになることと考え、勉強とは今までの自分にスキルや知識が付け加えられるというイメージの「獲得」ではなく、今までのやり方でバカなことができる自分を「喪失」することだととらえるという、「深い」勉強の方法について語っている。つまり、「勉強とはこれまでの自分の自己破壊だ」という視座に立っており、私流の言葉である「勉強とは自己の死と再生の過程である」という認識と一致している本なのである。だから、私は本書を共感的に読み通すことができた。ただし、その勉強の方法についての基本的な考え方や具体的な手法等については、新たな知見を得ることが多かった。

 

 そこで今回は、私が新たな知見として本書から得た勉強の原理論の内容概要と簡潔な所感について綴ってみようと思う。

 

 まず、その一つは「玩具的な言語使用」である。勉強をこれまでの環境のコードから別の考え方=言い方をする環境へ引っ越すこと、つまり新たな環境のノリに入ることととらえると、そのときに不慣れな言葉の違和感=不気味なモノのようになった言葉の違和感をもつ。これが、特定の環境における用法から解放され、別の用法を与え直す可能性に開かれた言葉のあり方であり、「言語それ自体」=「器官なき言語」と呼ばれる言葉のあり方である。著者は、この「器官なき言語」で遊ぶことを「玩具的な言語使用」と言い、それができるようになることを「言語偏重」になると言い表している。振り返れば、私は20~30代の頃、フランス現代思想に触れて「脱構築」「差異」「生成変化」等の言葉を知り、それらをやたら玩具的に使うことで「言語偏重」の人になっていたが、もしかしたらその時が今までで一番「深い」勉強をしていたのかもしれない。

 

 次に、私が新たに得た知見は、それまでの環境のノリから自由になるための2つの思考スキル、「ツッコミ=アイロニー」と「ボケ=ユーモア」の有効な活用法である。「ツッコミ=アイロニー」とは、根拠を疑って真理を目指すことであり、「ボケ=ユーモア」とは、根拠は疑わず見方を多様化することである。勉強の基本はアイロニカルな姿勢であり、これまでの環境のコードをメタ化して客観視することである。ただし、著者は本書で勉強において「ツッコミ=アイロニー」を過剰化せずに、「ボケ=ユーモア」へ折り返すことが大切だと主張している。

 

    その理由は、アイロニーを過剰化すると、絶対的に真なる根拠を得たいという実現不可能な欲望を抱いて、極限的には言語の破棄を目指してしまうからである。言語というのはもともと環境依存的でしかないのだから、そこでユーモア=見方の多様化という思考スキルが求められるのである。ただし、ここにおいても理念的には極限状態が考えられ、言語は意味が飽和し、機能停止に陥る。では、どうすればよいか。著者は、事実上は私たちの言語使用ではユーモアは過剰化せず、ある見方が仮固定されており、それを可能にしているのは私たち一人一人の個性=特異性としての「享楽的こだわり」だと言っている。「享楽的こだわり」が、ユーモアを切断するのである。

 

 そして、この「享楽的こだわり」というのは個人によって固定的なものではなく、勉強によって変化する可能性をもっているのだから、ユーモアの有限化は「比較の中断」という形になる。この絶対性を求めず、相対的に複数の選択肢を比較し続けるというユーモア的な方法へ向かいつつ、その途中で中断してベターな結論を仮固定し、また比較を再開するというプロセスこそが、「深い」勉強における基本姿勢になる。つまり、環境の中でノッている保守的な「バカ」の段階⇒それまでの環境をメタ化して、環境から浮くような「小賢しい」存在になる段階⇒メタな意識をもちつつも、「享楽的なこだわり」に後押しされてダンス的に新たな行為を始める「来るべきバカ」になる段階へという過程こそが、「深い」勉強なのである。

 著者は<付記>において、本書はドゥルーズガタリの哲学とラカン派の精神分析学を背景として、自分自身の勉強・教育経験を反省し、ドゥルーズガタリ的「生成変化」に当たるような、または精神分析過程に類似するような勉強のプロセスを構造的に描き出したものであるが、執筆が進むにつれて、後期ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論や、ドナルド・ディヴィドソンの言語論等も参考にすることになったと述べている。その結果として、本書はドゥルーズ精神分析と、分析哲学(における言語論)を架橋する議論の萌芽なものであるとも言っている。私は哲学の専門家ではないが、このような学問的背景を知ると、十分な理解ができないかもしれないが分析哲学についても勉強したくなってきた。本書の「深い」勉強の原理論を少しでも活かして挑戦してみようかなと、年甲斐もなく新たな学びへの意欲が沸いて来た次第である。