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コロナ禍で見失っていた哲学的な問いとは?~國分功一郎著『目的への抵抗 シリーズ哲学講話』から学ぶ~

 先日、久し振りにジュンク堂書店三越店へ行き平台に置かれている本たちを何気なく見ていると、帯の「自由は、目的を超える。『暇と退屈の倫理学』がより深化。東京大学での講話を収録!」という言葉が目に飛び込んできて、止むに止まれぬような気分になり『目的への抵抗 シリーズ哲学講話』(國分功一郎著)を購入した。以前、國分氏の『暇と退屈の倫理学』を読んで、あまりにも面白かったので当ブログの記事において10回連続で、各章の内容概要や簡単な所感を綴ったことを思い出し、あの時に味わった知的興奮が蘇ってきそうな予感がしたのである。

 本書は、第一部「哲学の役割―コロナ危機と民主主義」と第二部「不要不急と民主主義―目的、手段、遊び」という二部構成になっている。前者は2020年10月2日に東京大学教養学部主催「東大TV―高校生と大学生のための金曜特別講座」において行った講義(「新型コロナウイルス感染症対策から考える行政権力の問題」オンライン開催)の記録を、後者は2022年8月1日に自主的に開催した「学期末特別講話」と題する特別授業(「不要不急と民主主義」対面開催)の記録を基に編集された内容である。

 

 そこで今回は、それぞれの講話の中で特に心に残った内容の概要を、私なりの簡単な所感を添えながらまとめてみようと思う。

 

 まず第一部では、イタリアの哲学者であるジョルジョ・アガンベンがコロナ禍において世界に向けて警鐘を鳴らした問題提起の内容が印象的であった。彼は、コロナ危機という例外状態である「根拠薄弱な緊急事態(行政権力が立法権力を凌駕してしまう事態)」を理由に甚大な権利制限が行われている現状を、発表したいくつかの論考の中で鋭く批判したのである。具体的には、「生存のみに価値を置く社会」・「死者の権利」・「移動の自由の制限」という3つの論点について考察し、その背景にある「行政権力の問題」を取り上げて問題提起している。著者はこの問題に関する哲学的な議論について講義の中で詳しく解説しており、これが私にとって大きな知的刺激を与えてくれるものになった。

 

 コロナ危機における緊急政令によって、「行政権力」が三権分立という民主主義の原則を事実上の廃止に追い込み、行政権よりも優位に置かれると言われている立法権の代わりになってしまった。それにもかかわらず私たちは、この例外状態に以前から慣れ切ってしまっていていたために、ことさら異議申し立てをしなかった。特に法的根拠のない閣議によって、本来なら国会で審議すべきような国家の重大な案件を決定してしまうことに慣れ切ってしまっていた我が国においては、この「行政権力の問題」は極めて妥当するものであった。私は今まで閣議決定という行政権の行使についてあまり意識していなかったが、著者の議論内容を読みながら改めて日本における三権分立のあり方、つまり行政権が非常に強くなっている政治状況について、強い危機感をもつ必要があると思った。

 

 次に第二部では、コロナ禍において「不要不急」(どうしても必要というわけではなく、急いでする必要もないこと)という言葉が、行政からの要請を説明するために頻繁に使われ、それが広く世間に受け止められたことを哲学的に問う著者の議論内容に、私の関心が惹き付けられた。特に「必要」と言われるものに想定される「目的」の概念について深く考察している内容は、実践的に共感するとともに論理的にも納得するものであった。

 

 著者は、現代社会はあらゆるものを「目的」に還元し、「目的」からはみ出るものを認めようとしていない社会になりつつあるのではないかと問題提起し、その論理は消費社会の論理を継続するために、その支配を広げつつあるのではないかと仮説している。言い換えると、人々を記号消費のうちに留めておこうとする論理と、「必要」や「目的」を超え出る浪費を行おうとする人間にその贅沢を戒める論理が手を結んだところに現代社会があり、コロナ危機下、「不要不急」と名指しされたものを排除するのを厭わない傾向が容易に支配的になれたのは、もともとこの二重の論理が支配的だったからではないかということ。日々の生活実感からとらえて、私は著者のこの仮説に関して共感的に納得したのである。

 

 また、この何もかもが「目的」のために行われる状態とは、全てが「目的」のための「手段」になってしまう状態としても考えることができると、著者は考察を続ける。その中で、ドイツ出身のユダヤ系の哲学者であるハンナ・アーレントが、「目的」という概念の本質は「手段」を正当化するところにあると指摘し、全体主義が求める人間は「それ自体のために或る事柄を行う」ことの絶対ない人間であると言っていることを紹介している。そして、この人間像こそ現代の消費社会ではむしろ肯定的に受け止められているのではないかと、著者は問題視しているのである。

 

 では、全てを「目的」と「手段」の中に閉じ込めようとする消費社会の論理を、どのように批判的に検討すればいいのであろうか。著者は、この点に関して、アーレントと同じくユダヤ系の思想家であるヴァルター・ベンヤミンが提出した「純粋な手段」(アガンベンによる言い換えでは「目的なき手段」)という、理解したりイメージを描いたりするまでに非常に時間がかかる概念に注目し、それに取り組む思考のスタイルが要請されると言っている。

 

 さらに、アーレントが「目的」のために何かを犠牲にすることのない、行為を何らかの「目的」のための「手段」とみなすようなことの決してない生き方の核になるものとして「自由」という概念を提出し、「自由」について考えるとは行為の「自由」について考えること、政治という複数性の営みの中でどう「自由」に生きるかという問いに取り組むことであると主張していることを紹介している。

 最後に、著者は「目的」によって開始されつつも「目的」を超える行為、「手段」と「目的」の関連を逃れる活動としての「遊び」という言葉を導入している。「遊び」とは、合目的的な活動から逃れるものに他ならず、真面目に真剣に行われるものである。「自由」な活動に真剣に取り組む時、人間は「目的」と「手段」という関連からは一時的にも離れて、何らかの喜びや充実を感じることがあり、これこそが「遊び」なのであると解説している。

 

 私は本書を読み終わって、改めて「はじめに―目的に抗する<自由>」の冒頭部分に提示していた暫定的な結論「自由は目的に抵抗する。自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある。」の意味が肚にストンと落ちてきた。