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人間をトータルにみるための視点について~榊原哲也著『医療ケアを問いなおす―患者をトータルにみることの現象学―』から学ぶ~

 書店で『医療ケアを問いなおす―患者をトータルにみることの現象学―』(榊原哲也著)という書名を見た時、私はサブタイトルの「トータルにみる」と「現象学」という言葉に強く惹かれた。その理由の一つは、私が現職中に子どもの問題行動を理解する視座として、「子どもをトータルにみる」という言葉をよく使っていたからである。また、もう一つの理由は、そのためには「現象学」という哲学的アプローチが有効ではないかと考えていたからである。

 本書は、そもそも病いということはどういうことか、病いを患う人をケアするとはどういうことなのか、「現象学」という哲学の視点から改めて考えてみた上で、「医療ケア」を見つめ直していこうというスタンスで表されており、次のような5つの章(内容の概要を示す)で構成されている。

〇第1章…「疾患」と「病い」という、医療人類学や看護学でしばしば用いられる区別に言及することから始めて、現象学への導入を図る。

〇第2章…「現象学」という哲学について、とりわけ創始者であるフッサールの思想と、フッサール現象学を受け継ぎ独自の仕方で展開させたハイデガーメルロ=ポンティの思想について、本書の考察に必要な限りで解説を行う。

〇第3章…主として、フッサール現象学をベースにして書かれたトゥームズの『病いの意味』を手がかりにして、医学という学問と患者の日常の見方との違い、ずれについて現象学的な視点が論じる。

〇第4章…アメリカで主としてハイデガーメルロ=ポンティ現象学に基づいて洗練された現象学的看護理論を展開している看護学者のベナーが、ルーベルとの共著『現象学的人間論と看護』において提示している「現象学的人間観」を参考にしながら、患者をトータルにみるためのいくつかの視点について、具体例を交えながら論じる。

〇第5章…ベナーらが看護の目指す目標として掲げている「安らぎ(well-being)」としての健康の概念を手がかりにして、患者をトータルにみることこそが「安らぎ」の実現につながることを明らかにした上で、患者も医療者も、ともに人間であり傷つきやすい仲間であることの自覚をも促すこと、そしてこの自覚こそが、患者に向かい合い寄り添う医療ケアを可能にすること、さらにこのことが医療者の「安らぎ」にも繋がることを示す。

 

 本書を読み通した後、私はこれらの内容は教育という営みにおいても通用するものではないかと思った。もちろん患者と看護師という医療ケア関係と、子どもと教師という教育ケア関係を全く同じものととらえているのではないが、共通している点は多々あるのではないかと考えている。特に現象学的人間観(現象学的人間存在論)の立場から「人間をトータルにみる」ための視点は、教師が子どもを理解する際のポイントになっていると痛感した。

 

   そこで今回は、本書の第4章で紹介されている<患者をトータルにみるための5つの視点>の内容を要約した上で、それらに対する私なりの総括的な所感を付け加えてみたい。

 

 まず、第1の視点は「身体化した知性」。私たち人間は、精神と身体とに分断されたデカルト的な二元論的な存在ではなく、むしろ「心身の統合した存在」であること、そして、実は「身体が有する知性」=「身体化した知性」こそが、精神の高級な知的活動を支えていると言える。特に身体がもつ「意味を帯びた状況に応じる存在論的能力」の中の「生得的複合体」(赤ん坊が生まれた時に備えている前文化的な身体の能力のこと)と、「習慣的身体」(自覚されることなく間身体的に習得されたものと、意識的に習得された道具使用の能力を含んだ身体のこと)の能力という点が注目される。

 

 第2の視点は、「背景的意味」。同じ文化に属する人々に共有されている理解の枠組みであり、個人的・主観的というよりは間主観的なものを指す。私たち人間は、共通の存在構造をもつ以上、共通の文化的背景をもち、共通の状況に身を置いている限り、ある程度お互いに理解し合うことは十分に可能である。したがって、認識論的な立場よりも存在論的な立場から理解し合おうとする可能性を考えることが大切である。患者をトータルにみるには、患者との対話の中で患者の病い経験を理解することが重要であり、そのためにはその患者の携えている社会的・文化的・家族的な「背景的意味」を理解しようとする視点と、その視点を通じてその人の病い経験の構造的・発生的成り立ちを理解しようとする努力が欠かせない。

 

 第3の視点は、「気遣い/関心」。「気遣い」の方が人間の根本的な在り方を示す概念であり、「気遣い」によって人の個々の「関心」が生み出されるのであるが、ベナーらは必ずしも両者を厳密に区別していない。また、看護において「気遣い/関心」が第一義的であるという理由を、次の3つ挙げている。

① その疾患をどのような病いとして経験するのかは、その人にとって何が大事に思われているかという、その人の「気遣い/関心」の在りようによって決まるから。また、そうした病いに対して看護においてどのような対処の選択肢があるのかも、患者の「気遣い/関心」の在りように左右されるから。

② 看護師の患者への「気遣い/関心」があってこそ、その患者に向かう志向性が起動し、看護師は当の患者の「気遣い/関心」や患者の置かれた状況を理解できるようになり、また治療の手助けをしたり安らぎを与えたりといった対処も可能になるから。
③ 「気遣い/関心」によってこそ、人に援助を与えうる条件と、人から援助を受け入れる条件が立ち上がるという信頼関係が築かれるから。ただし、注意する点として、他者への「気遣い/関心」は、場合によっては支配―依存の関係や抑圧にさえ転化してしまったり、反対に支持と助勢の形になり「安らぎ」をもたらしたりすることがあるということ。

 

 第4の視点は、「状況」。私たち人間は、その日の「気遣い/関心」の在りよう、「身体化した知性」の能力、その人が具えている「背景的意味」に応じて、そのつど特有の意味を帯びた「状況」に巻き込まれつつ身を置いている。その人の「状況」を理解するためには、それらの視点からできる限り当事者の波長に合わせ、その立場に立とうとする努力が必要である。看護とは、患者の病いに「状況」づけられながらも、それでも可能な「状況づけられた自由」を求めている姿を手助けするという、病いへの対処としての営みである。

 

 最後の第5の視点は、「時間性」。私たち人間の生とそのあらゆる経験は、過去の理解と先取りされた未来によってそのつど意味を帯びており、それゆえ発生的成り立ちを有している。このことを「時間性」と呼ぶ。この「時間性」という視点は、「身体化した知性」「背景的意味」「気遣い/関心」「状況」という4つの視点で支えられた人間存在にとって「根幹」をなすものである。患者の病い経験を理解するためには、「時間性」の中でも「未来への先取りという契機」、すなわちその患者がどのような未来を先取りしているかを見る視点がとりわけ鍵になる。一般に、患者の病い経験に向き合い、患者をケアするためには、今よりも少しでもよい未来が先取りできるような対処を行うことが重要なのである。

 以上の5つの視点を踏まえて総括的なまとめをすると、次のようになる。…看護師が患者の病い経験とその構造的・生成的成り立ちを理解し、<患者をトータルにみること>に基づく医療ケアを行うためには、患者がどのような時間を生きているかを理解する「時間性」という視点を根幹に据えつつ、その患者の「身体化した知性」の能力がどのような状態であるのか、その患者のもつ「背景的意味」はどのようなものなのか、そしてその患者にとっての「気遣い/関心」、即ちその患者にとって大事と思われ、志向性が向けられている関心は何なのか、そしてその「気遣い/関心」によって患者はどのような「状況」に巻き込まれているのかを、患者と関わり、対話する中で理解しようと努力することが大切になる。…

 

 どうだろうか。「看護師」を「教師」に、「患者」を「子ども」に、「病い経験」を「問題行動」に、「医療」を「教育」に置き換えて読んでみたら、上述の総括的なまとめの文章は「教育という営み」に妥当するのではないだろうか。医療関係であろうが、教育関係であろうが、「ケア」という概念でとらえられる人間関係を考察する上で、「現象学」という哲学は有効なのだと私は再認識した。医療関係者はもちろん、教育関係者の方々にも本書はぜひ手に取ってほしい一冊だと思った。