6月も終わろうとしている。今月は2回しか記事をアップしていないが、私にとって心に残る経験を様々にしたので、せめてその中でも特に印象深かった記事をもう1本綴っておきたい。それは、もう2週間ほど前になるが、今月14日(金)の夜、私の職場の隣にあるコムズ4階の創作室を会場にして開催された哲学カフェ(NPO法人みんなダイスキ松山冒険遊び場主催で、テーマは「学ぶ」ことの意味)に参加した時のことである。市井の哲学カフェ初体験だったので、その時の様子と感想等についてぜひ綴ってみたい。
そもそも今回参加しようと思ったきっかけは、たまたま昼休みの時間にコムズの1階に設置している各種チラシコーナーをふらっと訪れた時、この哲学カフェのチラシを見つけたこと。また、その主催者が先のNPO法人だったこと。というのは、この団体は私が教職を定年退職した後に勤務した独立行政法人・愛媛県スポーツ振興事業団と「森の幼稚園」という事業を共催していたので、私も何度か運営に携わったことがあったから、身近な存在に感じたからである。
当日の18時半から開始された哲学カフェのファシリテーターは、地元の私立大学の非常勤講師でコミュニティカレッジ講師もしているYさんだった。参加者は、20~30代の男性3名(そのうち2名は主催者側)、20代の娘とその母親、福祉関係の仕事をしている女性、女子高校生2名、50代の主婦、私を含めて60代以上の男性3名(そのうち、1名は外国人)、年齢・性別・職場・国籍等、多様な属性を持った方々、そして主催側責任者のYさん(ファシリテーターの方と同名)を加えると、総勢12名だった。私を含め初参加の方が半数程度を占めていたので、哲学カフェが始まるまでの時間は何となくぎこちない雰囲気に包まれていた。
いよいよ開始時間になった。最初に主催者側のYさんが簡単なあいさつをして、すぐにファシリテーターのYさんの自己紹介。そして、早速テーマに沿った5つの著書の内容を紹介して、参加者が「学び」に関する知識を吸収する時間へと進んでいった。5つの著書は、『読書する人だけがたどり着ける場所』(斎藤孝著/SB新書)、『「助けて」が言えない 子ども編』(松本俊彦編/日本評論社)、『あなたも狂信する 宗教第1世と宗教第2世に迫る共事者研究』(横道誠著/太田出版)、『先生はえらい』(内田樹著/ちくまプリマ―新書)、『生の短さについて』(セネカ著)だった。私も読んだことがある著書が3冊あったので、Yさんがテーマの「学び」についてどのような視点からとらえてみたいかという意図はおおよそ分かった。他の2冊の内容については、自分なりに納得のいく視点だと思った。特に、信教における加害者の救済を「共事者」という概念からとらえ直し、経験の有無によるコミュニケーションの断絶を「学び」によって拓いていく可能性について指摘した点は強く共感した。
次に、初参加の人が多いので、席順に簡単な自己紹介とYさんの問題提起に対する感想を話すことになった。最初の20代の男性が今、哲学にハマっていることや古事記に関連した内容等を結構長めに話したので、それから後の方々も自分なりの「学び」についての考えを実体験に基づいてじっくりと話された。その中で、娘さんとその母親の方の話は私の心にチクっと刺さった。それは、学校の先生は子どもの問いを大切にした「学び」ではなく、教師が指導したい内容を「勉強」させることしか意識していないのではないか指摘されたからである。だからなのか、母親は子育ての中で「勉強しなさい。」と一度も言わなかったと話された。それを受けて、娘さんも「勉強しなさいと言われたことがなかったので、自分で分からないことや疑問に思ったことにこだわって学んできた。」と続いて語った。
私の番が回ってきた時、私の頭の中は上述した親子の話がグルグル回っていたので、自己紹介をごく簡単に済ませ、明治の学制発布以来の日本の学校教育における「知識伝達型の構造」について説明するとともに、1980年代になり日本もそのような構造を脱皮して脱近代における「対話型の学びの構造」へと転換する必要があったことを主張した。そして、「学び」とは「生きる」ことであり、常に人生に起こる問題を自分で解決していく過程こそが「学び」の過程になることも付け加え、自分が教職時代にはそのような問題解決的な授業を創造してきたことについて熱く語ってしまった。
私の次の順番だった女子高校生の一人が「自分は何でも不安になって、ついついいろいろなことを考えてしまい、寝不足になってしまうことがある。」と語った告白的な話や、50代の主婦の方が「自分は興味があることについて自分なりに学んで、知識や技能等を身に付けることができていて満足感があるが、いずれ死んでしまうとそれらは全く意味がなくなると考えると空しくなる。」と語った実存的な問題提起等も、私の心にある種のざわめきを惹き起こした。それは、私にも自分なりにそれらの心理に対して向き合ってきた経験があったからである。
だから、2度目に発言する機会を得た時に、「自由な社会になって自己選択・自己決定する機会が多くなれば、不安を抱くことも増えるのが当然であり、それこそが自由の証であることや、だからこそ、その不安を感じてことを他者と対話しながら、自分なりに解決していく道を見出していくことを生きている証として楽しむ気持ちが大切であること」などを主旨とした話をした。すると、その女子高校生が「その話を聞いて、自分は悩んだり不安なったりして考えることが好きなんだと自覚しました。考え過ぎるという性格をもっとポジティブにとらえたいと思うようになりました。」と反応してくれた。私は、このような応答的な対話ができるのが、哲学カフェのもつ意義なのではないかと思った。
また、定年退職をして人に教えるような立場になったという60代の男性が「自分が獲得した知識や技能等を他者に伝えるという経験をするようになって、死に対する無力感を感じる度合が少なくなったように思う。」と話をされて、それに対して先の主婦の方が「他者に自分の学んだ成果を伝えるという活動にチャレンジしてみようと思いました。」と応答的な発言をしていて、このような対話的な雰囲気が自然に各自の「学び」を誘発しているのだと思った。私は、さらに哲学カフェのもつ意義と可能性について確信を深めることができた。
まだまだ記憶に残っている場面もあるが、記事を綴る気力と体力がやや乏しくなってきたので、ここらで筆を擱きたいと思う。最後に、「世間は狭く、人との出会いは運命的な糸で結ばれている」という実例だと実感したことを付け加えたい。それは、終了時刻になり皆で机や椅子の後片付けをしていた時、ファシリテーターのYさんがさり気なく私に向かって「もしかしたら、以前に私の娘の教育相談を担当してくれた方ではないですか。」と尋ねられたのである。私は、改めてYさんの顔を見直すと、一昨年、市内のある小学校の6年生女児の保護者として対面していた方の顔とダブった。「あの時のお母さん!」と私が答えると、「娘も無事に中学校へ進学し、頑張ってやっています。あの際は、先生から私の子育ては素晴らしいと褒めてもらったことを覚えています。」と言ってくれたのである。
次回は、7月12日(金)の同じ時間帯で〈「老いる」を考える〉というテーマで開催される。私も事前の参加予約をしているので、また哲学カフェの醍醐味を味わう経験ができるのではないかと今からワクワクした気分に浸っている。また、その体験記を当ブログの記事として綴ってみようと考えているので、乞うご期待のほどを!