8月9日(金)、私は第2回学校生活支援員研修会の事務局員として松山市青少年センターで勤務した。参加者が多数になるので、午前と午後の各40分間ほど戸外で駐車場案内の仕事をした。猛暑の中だったので、全身から汗が噴き出して、熱中症のような症状になりそうになった。だから、研修会の時間には、冷房の効いた室内で水分を補給しつつ体調を整えるのが精一杯の勤務になった。また、教育委員会事務局へ帰庁してからも、頭がボーッとしたまま事務仕事をこなす状態だった。
そのような体調にもかかわらず、私は退庁後、簡単な夕食を取って職場の建物の隣にある松山市男女共同参画推進センター=コムズへと向かった。今夜は、以前に初参加した市井の哲学カフェの主催者が、コムズで夏休み特別企画として「子ども哲学カフェ」を実施することになっていたからである。新型コロナに感染したために、前回の<「老いる」を考える>というテーマの哲学カフェに参加できなかったので、今回の「子ども哲学カフェ」には参加したかった。もう一つ参加しようと思った理由は、私自身が地域の公民館で「子ども哲学カフェ」を開催したいと構想していたので、ファシリテーターのあり方を研修したかったからである。
さて、今回の「子ども哲学カフェ」のテーマは<「うそ」と「ほんとう」>。主催者のYさんによると1学期中に市内の小・中学校に5,000枚の案内チラシを配布したらしいが、今回は夜の実施ということもあってか子どもの参加予定者はたったの4名。主催者とファシリテーターのYさんたち(身内ではないが、二人は同じ姓!)から事前にメールで「初めての試みでもあり、子どもの参加者が少ないので、ボランティア・スタッフとして参加してほしい。」という主旨の依頼があったこともあり、私は開始時刻より早めにコムズに到着した。でも、ロビーで待機していたのはファシリテーターのYさんだけ。しばらくYさんと雑談していると、主催者側の若い男性と見学するために参加した高齢男性の外国人が到着したので、早速、3階の会場へ皆で向かった。
私たちが会場設営をしていると、主催者側のスタッフや参加者の子ども、その家族等が三々五々入室してきた。「子ども哲学カフェ」なので子どもたちは、テーブルの中央の椅子に座ってもらい、大人たちはその周りを取り囲むような位置に座った。参加した子どもは、母親と未就学児の妹と一緒に参加した小学校高学年の姉弟の2名、自宅がコムズの近くだからと一人で参加した小学校高学年の男児、そして祖母と一緒に参加した高校3年生の男子の合計4名。そして、大人はスタッフを含めて9名だったので、子どもの発言を中心にしながらも全員で哲学対話をすることになった。
まず、『うそ』(作;中川ひろたか/絵;ミロコマチコ)という絵本を、朗読役のMさんが読み聞かせをする場が設定された。そもそも「うそをつく」とはどういうこと?「うそ」にはどんな種類がある?「うそ」と「本当のことをいわない」は同じこと?そもそも私が信じている「ほんとう」って、本当のこと?・・・様々なことを考えさせるような絵本だった。絵本は子どもだけの図書ではなく、全ての人が自分の年齢や立場等に応じて解釈することができて、それぞれに意味をもつ図書であるということを、私は改めて実感することができた。
その後、ファシリテーターのYさんの進行で、一人一人が簡単な自己紹介と絵本『うそ』に関する感想を発表していった。子どもたちからは、「うそをつかない方がいいけど、どうしてもうそをついてしまうことがある。」「怖い相手には、ついうそを言ってしまう。」「大人はうそを言ってはいけないと言うけど、うそをついたことがない大人はいないのでは?」などの感想が出された。大人からは、「うそにもグラデーションがあり、冗談から気遣いと言えるようなうそもある。」「小さい頃に祖母から、“うそをついても自分はごまかせない、お天道様は全部知っている”と言われたことがある。」「相手のためを思って言ったうそでも、うそをついたことに罪悪意識をもってしまう。」「そもそもうそとは何なのか。」などの感想が出された。いつの間にか、Yさんはホワイトボードに皆の感想をまとめて板書していた。
一通り皆が発言した後、トイレ休憩を取ることになり、参加者は少し気分がほぐれてきて、用意されたお菓子や飲み物を口に入れながら雑談をした。ピアスをしたイケメンの高校3年生の男子は、「祖母のことを小さい頃から“母さん”(実母のことは“ママ”)と呼んでいたので、今でもそう呼んでいる。時々、親子だと勘違いされる。」と話していて、彼の見た目と発言内容とのギャップがあり、私は自分の思い込みの怖さを実感した。また、一人で参加していた小学校5学年の男児は、「そもそも時間も人間が作った概念ですよね。」などと大人顔負けの発言をして、のんびりした気分に浸っていた大人たちを驚かせた。
休憩後は、Yさんからホワイトボードに書いた内容を基にしながら前半の対話のまとめがあり、「うそに良いうそとか、悪いうそとかあるのかな。」と働き掛けがあった。そこで、後半はそれぞれが自分の発言したい時に話す雰囲気になり、自然な流れで哲学対話が展開していった。子どもたちの発言の中には、「悪いうそは、自己中心的な考えで言っている。」「悪いうそは、人を巻き添えにしてしまう。」「良いウソか悪いウソかは、結果で決まるのではないか?」などもあり、「うそ」に関する思考が深まっているのが分かった。私は、子どもたちの発言を聞いていて、つい次のような主旨の質問をしてしまった。
「私が教師をしている時に水泳部活動の指導をしている中で、大会が近づいてきたので子どもたちのモチベーションを上げるために、ストップウォッチを操作して“タイムが前より速くなった”とうそをついたことがある。自分は今でもこのうそはよかったのかどうか、悩むことがあるんだけど、子どもたちの立場から考えてどう思う?」子どもたちからは、「結果がよかったのなら、良いうそだからいい。」「でも、そのことを本気にして安心してしまい、練習をさぼってしまう子がいて、悪い結果になったら悪いうそになってしまう。」などの考えが出された。また、大人からも「子どもに自信をもたせようとしたうそなのだから、悩まなくていい。」「でも、そのことを当事者の子どもたちには一生打ち明けないほうがいいのではないか?」「うそをつくなら一生つき通す覚悟が必要である。」などの発言があり、私はそれらの反応があったこと自体が嬉しかった。
その他にも、「自分が嫌だと思っている勉強をするのは、自分の気持ちにうそを言っているのではないか?」とか「自分の身体は女性だけど心は男性の人が、世間の中で女性を装っているのは自分にうそをついているのではないか?」とか、様々な対話が展開して私も深く考えることができた。そのような中で、最初に朗読したMさんが、自分の先輩の中に美人の人がいて、ある時にその先輩の家に泊まった際に化粧を落とした素顔を見て本当に驚いたという話をした後で、イケメンの高校3年生の男子に向かって、「女の厚化粧という“うそ”にはくれぐれも騙されないようにしていね。」と発言した。私はついぷっと吹き出ししまったが、その場面が今でも脳裏に強く残っている。イケメンの彼は困惑したような表情をしていたが、ここで私は「不細工な素顔を厚化粧して美人に見せるのは、“うそ”と言えるのだろうか?」と皆に働き掛け、対話を展開すべきだったのではないかと後で反省した。常に自分がファシリテーターだったら・・・という立場で、今後の哲学対話に参加することが必要だと思った次第である。